玄米とごぼうの生命力

玄米は、水につけておくと発芽する(発芽玄米)だけあって、生命力の非常に強いたべものだ。マクロビオティックでは、食事を玄米主体で組み立てる事で、体調を整えることができるという。 これにこれまた生命力の強い「根っこ」であるごぼうを併せて炊き込むと、とてもおいしいごはんが出来る。 作り方は簡単でささがきにしたごぼうを水にさらさずに蒸し煮にしたものと洗った玄米を併せて、塩ひとつまみを加えて水加減して炊くだけ。 ごぼうの香りと食感が、玄米のしっかりした歯ごたえにアクセントを加えてくれる。 ごぼうごはんとみそ汁があればおかずはいらないぐらいだ。 日曜の夜、ごぼうごはんを炊いたところ、これが会心の出来! 翌日も大事に食べようと思ったが、たくさん炊き過ぎて冷蔵庫に入らないので、そのまま鍋に入れておいた。 夕方、さあ食べようと鍋のふたを開けると、ちょっとにおいがおかしい。 「これぐらい大丈夫かなあ」 未練がましく、混ぜてみたら見事に糸ひいてました。 やっぱり生命力強いだけあって、発酵するのも早いみたい。 あまりの悔しさに、一日経った今もそのまま放置。 そう言えば、昔、腐ったシチューを3日ぐらい放置していたら、鍋が腐食してしまいました。 ふた開けるの怖いな

自分で祝う

ハッピーバースデイ!! 夏休みだから誕生日って、あんまり友達と過ごした記憶ない。 家族との思い出以外では、小学校のとき、家で誕生日会やったことが一番印象に残ってるかなあ。 たかぼーってやつがつくりかけのプラモ持ってきてくれた。 そのときは、「え、これって作りかけ?」って思ったけど、なんかお小遣いももらえない中で大事なプラモくれたのは、すごくうれしかった。 ・・・というのはちょっとかっこつけすぎ。ほんまは来てくれた事はうれしかったけど、どうせなら「100円のもんでもええから新品持ってきてくれ!」って思った。 その後は、すごく仲良くなったけど、中学行ってからは一回も会ってない。 また会いたいなあ。。。 節目の日に昔をちょっと思い出しました。 追伸:こういうのは、リユースかな。

ダウンシフトする

最近流行の言葉、「スロー」。 先日も「ファーストな生活、スローな時間」で触れたことで、スローな時間を過ごす事でもっとも大事なのは、「(自分で選んで)スローな時間をすごした」という実感だ。 たしかに「なんにもする事がなくてヒマ」っていうのも良いのだが、ここはもう少しポジティブな意味で「スローライフ」を捉えていきたい。 現に中途半端に勉強した人にとっては、「ヒマ人の代表」のように見える「徒然草」の作者の吉田兼好も、実際には、 『決して、「つれづれなるままに」というような、消極的な動機や、「心に移りゆくよしなし事を」というような、偶然的な思いつきや、「そこはかとなく書きつくれば」とあるような、粗慢な執筆態度ではなくして、そこには、積極的な題材の収集があり、緻密な思索的論証があり、自己の作風を樹立しようとする強い意欲の発言のある事が知られる。」(安良岡康作「解説」(「徒然草」岩波文庫所収))』 という感じで、徒然草は暇つぶしに書かれたどころではないことが指摘されている。 スローライフも、「仕事がなくなってすることがない」「人生の目的が見つからないからすることがない」という生活とははっきりと一線を画した言葉だということは認識するべきだ。 むしろ、「自分で自分の使い方を選びとる」ライフスタイルの一種と言える。 スローライフがポジティブな意味だとすると、スローライフを送る人が「忙しくてとてもスローとは言えない」と一様に口にしていてもおかしくはない。 ポジティブな人は、どんな暮らしをしていても次から次へと次にやる事が見つかり、ぼーっと何もしないということは少ないだろうからだ。 スローライフの一つの典型として、「田舎の環境がいいところに移り住んで、家族との時間を増やす代わりに、年収が減る」というパターンがある。 こういうスタイルは、最近、「ダウンシフター」と分類されているようだ。 生活レベルを「ダウンシフト」する代わりに、心の満足を得ようということになる。 この間学会で聞いた話では、ダウンシフターと普通に都会で暮らす人の生活満足度を比較したらほぼ同じだったという結果が得られたという。 これなんかは、経済学の「補償変分」の考えを使えば当然だ。 「家族との時間」を「年収の減少という支出」で「購入している」わけだ。 何となく、30代半ばになって、ある程度社会人経験を積んだら、地元に帰るというのが人として理想的な生活という気もする。 僕の場合は、なかなか働き口も見つからないだろうから、こんな僕を受け入れてくれるような場所探しが30代の目的かなあと思っている。 やっぱ、住むなら九州かな。

えいご

鹿児島県には「えいご」というものがある。 頴娃町という町の人々が話す言葉が独特すぎてわからないので、「えいご」と呼ばれているらしい。 ちなみに、全えいオープンゴルフ大会もやっているようだ。 (http://www.minc.ne.jp/eitown/) この町は農業主体の町だが、住民は周辺の市町村住民よりも勤勉だといわれていて、所得も2から3割高いのだそうだ。 南は東シナ海か太平洋かなんだか知らないが、海に面していて、この海の景色は最高だ。 鹿児島県で好きな景色ナンバーワンかもしれない。 という話は、おいといて、本題。 こちらは、「えいご」ではなく、普通の英語の話。 先週東京に行って、学会のコメンテーターをしてきた。国際学会なので全部英語。 最近、英語、うまくしゃべれないからどうしようかなあと思っていたのだが、たまにはいいかと思ってお招きを受けることにした。 なんというか、昔はわりと滑らかに英語が出てきたのだけれど、最近は全然話せなくなっている。 日々の訓練を怠っているからなんだと思う。 まあ、それはいいのだけれども、今回は「もう昔の自分と違うから、英語はしゃべれないと思って話せ」と自分に言い聞かせて、一文ずつ考えながら話したところ、まあまあうまくいった。 英語が話せないと思う人、英語を話すときに焦って話していないか、確認してみてはどうだろう。 普段、ネイティブの発音とかをテープなんかで聞かされているから、知らず知らずに早く話そうとしすぎているかもしれない。 一般論になるけど、イメージと現実が離れている場合には、その間を埋める努力を考えて、実施することが有効だと思う。 コメンテーターとしては、冒頭のジョークがすべったのはちょっと痛かった。 台風が来てたから、そのネタでも考えればよかったかなあ。

ウェルカム浴衣茶事!

最近、夜、大阪の環状線乗ってると浴衣の女の子がすごくおおいですね。 大体は花火なんでしょうけど、茶事なんかだと風情があっていい感じ。 僕も最近、和服来たいなあって思ってます。 でも、和服って、作務衣で環状線やと「ヤンキー?」って思うし、思いっきりほんまもんの和服やと鹿児島時代の同僚のH先生思い出したりで、なんか微妙です。 (H先生のまねしたくないってわけじゃなくて、むしろ、「恰幅」よくないとあかんのかなと。・・・フォローになってへんか、これ?) まあ、要するに、和服姿になるのは僕にとってなかなか敷居が高いってことです。 ちなみに、小学校では剣道やってて稽古の後とか剣道着来て街を歩いてました。 そんなある日、「あの子、男の子?スカートはいてる」とか、女子高生に指差されました(泣)。 1年後くらいに、こんどは普通に学生服来て電車乗ってたら後ろの方で「あの子、去年ぐらいにスカートはいて歩いてた子じゃない?」としゃべってました。 剣道やってると、道着来てる上からジャンバー着たりするから、一部の(ものを知らない)人にはそう見えるのも仕方ないかも。

http://tb.plaza.rakuten.co.jp/botam/diary/200507270000/"

ウェルカム浴衣茶事!

もったいないけど、いらない

今仕事でアンケート調査をやっています。その過程で印刷屋さんにお願いしたアンケート票を束ねていた輪ゴムが大量に出てきました。 何かに使えるかなと思い、1週間ほど部屋においておいたのですが、用途がまったく思いつかずついに捨ててしまいました。 こどもの頃は、なんだかんだと輪ゴムを使う機会が多かった気がします。 父の会社に行って、輪ゴムが大量に入った箱を見たときには、「あれが僕のものだったらなあ」と夢想にふけったことを今でも覚えています。 小学生の時には、輪ゴムをつなげて長いひも状にして、ゴム跳びをして遊んでいた女子もいました。 割りばしと輪ゴムが一緒にあるときには、ゴムてっぽうを作って遊びました。 こういう遊び以外に輪ゴムを使う実例ってあまり覚えてませんが、何かと便利に使っていたように思います。 でも今、会社の部屋にある輪ゴムは全然用途が思いつきません。 もちろん、自宅ではちょっと袋の口を止めたりするときにたまに使ったりはします。 考えてみれば、オフィスにあるもののほとんどが紙の資料でクリップがあれば足りてしまいます。 僕の生活では、いつの間にか、輪ゴムが必要ではなくなっていました。 今はどうか知りませんが、輪ゴムって天然ゴムでできていたと思います。 貴重な資源を使って製造されたものなのですが、なんだかもうあまり必要性を感じられなくなっています。 ごみが出る原因として、「時代に必要とされなくなった」というものがあります。輪ゴムもその例なんでしょうか。 なんだか、いろんな用途に使える便利なものだけに、こどもの頃の記憶とともに市場からも消えてしまうのはちょっとさびしい気もします。

おかげさまで在庫がそろそろ

4月に本を出版して以来、アマゾンを見る日々。 ランキングも7万台位をピークに、今は28万位ぐらいです。 上から28万番目って、あいかわらずよくわからん順位ですね。 わかるのは、上にはずーっと上があるってこと。 出版以来、間違いも結構見つかってて、なんだか恥ずかしい日々を過ごしています。 僕が文章を書くのは、人から批判してもらうため。 でも、間違いを指摘されるのはやっぱりつらいところです。 がんばってるのに力及ばぬ、って感じですね。 昔学生に、「間違いの多い教科書は著者が力を入れていないって証拠や!」って話したことがあります。 まあ、正直に言うと、「話す」というよりは「言い放つ」の方がそのときの感じを良く捉えてるかも知れません。 素直に、今、あのときのことを謝ります。 「ごみの環境経済学」には結構力入れました。 販売だけじゃなくて、執筆と校正も、かなりやったつもりでした。 ということで、おかげさまで、間違いを一気に訂正するチャンスがやってきたようです。 そう、在庫がそろそろ減ってきたらしいんです。 もしかしたら、後期の開始にあわせて、増刷になるかも!です。 購入してくださった方、ありがとうございました。 初版一刷をお持ちの方は、どうか僕の記念すべき1冊目と言うことで2刷がすぐに出てもご理解ください。 3月末に売り出して、7月末に増刷決定となれば、4ヶ月で初刷完売することになります。 3年で売り切れればいいかなと思っていたので、かなりいいペースですね。

こうたいごうたい

うちのマンションの玄関は一晩中電気がついている。 マンション理事会で、「このマンションは虫が多いから、毎日掃除が必要だ!」とか言う人がいる。 「あほか?」 と思う。 夜中は電気消せばいいでしょ。 センサー付けとけば危なくもないし。 まあ、それはおいといて。 この家にきてから、目がまっ赤なカゲロウがいることを知った。 全身が薄緑色のカゲロウは見たことがあったけど、このカゲロウは、なんとなく茶色っぽい体に、目が真っ赤で、小振りだ。 先週あたりまでこの虫がマンションの灯りに集まっていた。 昨日は、おびただしい量の羽あり。 せっかく飛び立って散らばるはずの集団が、あっさりと近所で再集合。 雨が上がって羽も乾いたから、と飛び立ったんだと思う。 今日は小さいセミが一匹。 カナカナゼミかな? 毎晩電気を点けないと「怖い」っていいながら、それに集まってくる虫を見てまた「怖い」と言う人たち。 本当に人間というのはいきものなんだろうか。

ええかげんなことば

スローなライフスタイルを目指していると、どこか「ええかげん」な部分がほしいなと思う。 ええかげんというのは、「良い加減」のことだ。やりすぎないところと、ぜんぜんやらないの間、ちょうどいい部分を指す。 なんか、徹底したエコロジストとか、攻撃的過ぎる人とか、「自分にできる範囲で無理をせずに」(といいながら実際なんにもやってない)とか、そんなのが多すぎる。 ええかげんさの心地よさとか、大切さがもっと広がればいい。 それはさておいて、本題の「ええかげん」という言葉、悪くすると、「いい加減」と考えられて、「テキトー」とか、「おざなり」とかいう言葉と思われてしまうので、使い方には注意が必要だ。 実は、今日はここで出てきた、「おざなり」という言葉がとても気になって、この項を書いた。「なおざり」とちゃうん?とか思わへん? 僕は、「なおざり?おざなり?どっちかいなあ」と悩んだ末、調べてみた。 以下が、その結果。 おざなり(御座なり):当座をつくろうこと。その場逃れにいい加減に物事をするさま。 なおざり(等閑):あまり注意を払わないさま。いい加減にするさま。かりそめ。おろそか。ゆるがせ。  あっさりしていること。 (広辞苑第5版) おざなりは、ごまかすって感じで、なおざりは「心ここにあらず」という感じか。ちなみに、なおざりの二つ目の意味は好意的な意味に使う。 びっくりしたのが、御座なりも等閑もちゃんと変換できること。最近はパソコンのほうが、僕より賢いなあ。

3歩進んで2歩下がり、1歩進む?

サミットの合意文書に、温暖化の原因が「人間の活動によって生み出される二酸化炭素(CO2)など温暖化ガスが温暖化の一因である」と明記されるようだ。 http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20050708AT2M0800I08072005.html こんな話、京都議定書(1997年)の時点で終わってるんじゃないの?と思いたくなるけれども、そう言う約束なんてなかったよ?と知らないふりが出来るのが今の国際社会の面白いところ。 議定書を離脱するのは(許せないけど)まあ、仕方ないとして、今さら温暖化の原因がCO2なのかどうかなんて議論、してほしくないなあ。 だって、もうどういう対策をするかとか、どれぐらい減らすかとか具体的に米国以外の先進国はやっている段階にある。それをそんな初歩的な交渉をやり直そうだなんて、時間の無駄もいいところだ。 正直、こんな大統領につきあう各国の首脳の辛抱強さに頭が下がる。 基本的に経済学では、こういう大規模で因果関係が明らかではない問題については、対策費用に比べて被害がとても大きいから、科学的には完全に解明されていなくても、政策を実施すべきだと考える。 温暖化問題はまさにその例だ。 それなのに、科学的じゃないから・・・だなんてねえ。 もちろん、温暖化とCO2の関係についてはきっちりと科学的に解明する必要がある。そして本当に人為的な活動と関係がないってわかれば、それはそれでいいんじゃないだろうか。 「いやいやいや、大騒ぎしてしまいましたけど、結局関係ありませんでしたねえ。でも省エネ技術たくさん開発できたからまあ良しとしましょうか」 ってな感じで。 少なくとも今は、温暖化の主原因は人為的な温室効果ガス(CO2など)の排出だと考えられているのだから。