さて、6月に入って、松山、熊本、東京、名古屋と続いた出張の日々もようやく終わりました。 週末東京生活は、相変わらずですが、これは家に帰るだけ。 出張先でホテル暮らしというのはやはり疲れますね。 ついつい仕事漬けになってしまうので、玄米食べられないせいか、5月末からひいている風邪がなんだか直らないのか、体調が悪いままです。 今日は早起きして、玄米を炊いて食べました。 今日からしばらくマクロビ食で立て直しです。 マクロビを学んでいると、体調が悪くなったらとりあえずあそこにもどればいい、というのが頭の中にできるので気が楽です。 それはさておき、昨日、名古屋で保護者懇談会で30分ほど講演しました。 「環境問題で結局なにが大事なの?」というテーマです。 来ていた事務の方も喜んでもらえたようで、ほっとしました。
たまには遊びも
かたい記事ばかりなので、ときには遊びも入れてみよう。 うちのうさぎのへいたです。 僕がヨハネスブルグサミットから帰った直後にうちに来たので、もうすぐ6年目になります。オスだからか、部屋で遊ばせてあげると、かならずおしっこをするので、掃除が大変。 なにかが不満なのだと思うのですが、その「なにか」が分からないんですよね。 雑巾を持って追いかけまわさなければいけないので、朝のいそがしい時間とかにおしっこされると、かなりいらっときますが、怒るつもりがついなでてしまったり。 でもこれがけっこう張り合いになってたりして、なかなかおもしろいです。 まっくろなんで、きれいな写真がなかなかないのが悩みかな。
フィールドワーク
明日、6月1日から3泊4日の予定で、学生を引率して愛媛に行ってきます。 フィールドワークという講義です。 今年で4回目の合宿調査でして、毎年行き先を変えてきました。 担当者も去年までの4名から5名に変わり、うち3名が新顔になりました。 参加学生数も、5名、12名、14名、25名と順調に増えています。 経済学部でなんでフィールドワークが必要なんだ?と思う人も多いんでしょう。 僕は経済学こそフィールドワークをやるべきだって思っています。 これは学生だけじゃなくて、研究者も。 自分たちの学問が現実に照らしてどうなのか?どれぐらいの距離感を持って自分は研究を進めるつもりなのか? こういうモノサシが体に持たずして、研究ってどうやるんだろう?って思います。 今時分がやっていることの意味というのを、ある程度持ち続けることで何十年も研究をやり続けることができるんじゃないかな。 ある意味、フィールドワークをやらないのは「逃げ」だと思うんです。 確かに、フィールドワークやるというのは、最初は精神的なプレッシャーがけっこうあって大変です。 調査先も警戒心をすごく持ちますしね。 それでも、相手のやっていることを聞き・考えを聞く一方で、自分の考えたことを相手にぶつける、そして相手がどういう反応をするのかを見るという作業をすることで、自分の考えが相対化されます。 学会で研究者同士でそういう議論をしてもかまいませんが、同じ相対化をするならば、現実との相対化をはかる方が、よほど新鮮な問題意識が生まれます。 学生の間は、経済学の勉強、つらいと思います。 現実のこと何も知らない高校生上がりが、突然国の政策のこと、企業のことを教えられるのですから、それは当然です。 具体的なイメージがどうしても浮かばないんですね。 そのなかで、フィールドワークをすることで、今やっていることの具体例を、身をもって知ることができます。 教員の方は、正直、これを普通の講義と同じと考えられてはわりに合わない気がします。 でもまあ、それで成長する学生を見ていると、準備の大変さや引率の気苦労も報われる気がします。 今年のフィールドワーク、学生もかなり熱心なようですので、どういうことが起きるか、楽しみです。
ふと、旧友を発見
仕事の合間にCNET Japanのとある記事を読んでいたら、翻訳校正が中学時代の友人だということに気づく。 石橋啓一郎というのがその人。 コンピュータ業界に、中学の友達が二人いる。 中学時代から一緒にPCいじってた仲間だ。 僕はと言えば、あまりの時間のなさに、サーバをいじるのは他の人に外注して、コンピュータの世界から足を洗おうとしている。 なんだかうらやましいな。
新学期が始まりました
月曜日(7日)から新学期が始まりました。 1年生はなんだか元気いっぱいな感じがします。 僕はといえば、少しずつ講演の仕事が入ってきたりして、なんだか大変なことになりそうな気もします。 いろんな仕事がすでに入って入るので、講演は当面、カフェスローOSAKAで月に2回イベント出演+月二回の出張講演ぐらいが限界かなあ。 できるだけ仕事を選んでいかなければ体が持たないと言う気がします。 どういう風に仕事を選ぶのか、と考えるとやっぱり先着順でしょうねえ。 ただ最近、無料のイベントには極力出ないようにしたいなという思いが強くなっています。 あ、無料と言っても謝礼が無料という意味ではなくて、お客さんの参加費が無料という意味です。 行政やNGOのやっている無料イベントの効果とか意味がなんだかわからなくなってきました。 無料イベントですそ野を広げようとしている割に、集客が少なかったり、いつもと同じ顔触れだったりということが多いのです。 ある程度の料金を設定して、それでも来たいという方にきちんとしたサービスを提供する方がいいのではないかということです。 そして、参加者は少なくなるかもしれないけど、そういうイベントで収益を上げていきたいという団体に協力したいのです。 その方が、寄付文化も根づくんじゃないかと思います。 イベントの収益を改善しつつ、将来のスポンサーを育てることにもなります。 無料イベントで裾野を広げるのが大事だ!という考え方も確かに成り立ちます。 ただ、無料イベントは効果が薄いと考える僕のような人間もいるということだけは理解してもらいたいなと思います。 僕は自分にとって意義のあることにはお金をきちんと支払うという意識をある人ともう少しつながりたい気がしています。 「あいつ、仕事断りやがった。偉そうに」 とだけは言わないでくださいね。 でもまあ、そうは言ってもなかなか来た仕事、断れないんですよねえ。 これって、僕自身にもっと有名になりたい、名前を売りたいという願望があるのかもしれません。 断って、嫌われたくないという八方美人的な気持ちも確かにあります。 尊敬する先輩に「就職して10年は仕事を選り好みするな!」と教えられたということもあります。 考えてみれば、今年は就職してちょうど10年目になります。 新入生を見ていて、新人教員時代もかなり前になった自分を振り返ると、ほんとうに遠くまで来たなあという感じです。 ここらで初心に帰って、一つ一つ丁寧な仕事をしていきたいからこそ、仕事を断りたくなってきたんだと思います。 さて、今年もがんばりますか。
大学院の講義ノートが、教科書みたいになってきた。
4月からの大学院の講義は、統計ソフトRを使って、環境問題を定量的に分析しようというものです。 感情論にながされずに、データではどの程度のことが言えるのか、自分で分析できるようになってほしいというのが講義の目的です。 データや理論で言えることを尽くしたうえで、最後の価値判断はお互いの感情の問題も入ってきてよいですし、むしろそれが当たり前です。 中途半端に統計のことをかじっていると、ついつい「データがすべて」と思ってしまうので、この辺でデータアレルギーをなくそうってみんなに言いたいなっていつも感じています。 それはさておき、若干親切めの講義レジュメをつくろうと思っていたら、中途半端な説明が気持ち悪くなってきて、ついつい書き込んでいってしまいます。 まだ3分の1ぐらいしかできていないんですが、読み返せば読み返すほど、手を加えたくなってしまいます。 このまま行くと、計量経済学の本が一冊出来上がるのではないかと思うぐらいです。 講義時には計量経済学のテキストは持ってきてもらおうと思っています。今作っているレジュメは、テキストのどういうキーワードをしらべればいいのか?というナビゲータ的なもの。 不正確でもいいから、必要なキーワードを「順番に」押えていくことを目指しているんですが、そういう位置づけのものって難しいですねえ。 世の中を見回しても、こういうスタンスで、「流れと応用の方向性がわかればいい」的なものって少なくて、本格派として、何でもかんでもきっちり書かれているものか、マニュアル的なものばかりです。 僕は、新しいことを簡単に学べることは大事だと思うけど、その先に好奇心をつなげることも大事だと考えています。 簡単なぺらぺらの本を一冊読んでもらって、「勉強した!」と満足させてしまっては、次につながりません。 「これ読んだら、ますます勉強したくなった」 と思わせる本が、いい本だろうと思うのです。 本でも講演でも、映画でも、なんでもいいのですが、読んだり見たりしているうちに、いろんな発想がわいてきて何かしたくなって、いらいらしてくるのは、いい知的刺激をくれるものかなあって思います。 ただただ、圧倒されるのは、相手を呑んでしまって、相手を育てることにはならないでしょう。 「あの人の授業、つっこみどころ満載やん。例えば、こういう例があったけど、これのほうがええんちゃうん?」とか、学生に思わせれば、授業は成功したも同然です。 「めっちゃ分かりやすかった。満足しました」で自己完結させてしまうのはやっぱり失敗でしょうね。 僕の今作っている資料も、不正確な事書いて突っ込まれるのはいやだけど、あるていど不十分さを残しておかないと、発想の余地がなくなってしまいます。 きっちり説明して、よくわかっているでしょうとアピールするのが目的ではなくて、学生に自分で考えてもらうのが目的です。 「もっと書きたい!」という気持ちをいかに抑えるかが大事なのかもしれません。
なにわエコ会議で話をしてきました
なにわエコ会議というのは、大阪市が市民団体と協力してつくったグループだそうです。 昨日(19日)は、会議の中のエコライフ部会が主催する「知って得する エコカフェ」というものに参加してきました。 全体のテーマは「ストップ!温暖化をデザインする」で、まず僕がこのテーマで話をして、残りの二人(積水ハウスの佐々木さんとあだーじょの岩川さん)が取り組みの紹介をするという流れでした。 天気はあいにくの雨。 昼すぎからだったので、早めに大阪駅についてご飯でも食べようかと思って、財布を見ると、ない! 移動はICOCAなので、大阪に出るまで現金ないことに気づきませんでした。 よし、今日のネタは「スローな生き方をしていれば、お金のことを忘れてられる」ってネタで行こうか。 講演の前はついついネタ探しをしてしまいます。 平日の昼間だけに、会の集客はいまいちだったものの、他の報告者と全体司会の岡さんの話がよくて、得した気分でした。 積水の佐々木さんは「今日は商品を売りにきたわけではない」とおっしゃっていましたが、三本は鳥のために、二本は蝶のためにという、「五本の樹」のコンセプトはすばらしいです。ついつい、家買うなら積水にしよう、と思ってしまいます。 また、佐々木さんのプレゼンがよかったです。 学生にはあれをぜひ見てもらいたかったです。 岩川さんの話は環境家計簿の話。 家計簿をつけるだけじゃなくて、つけてからみんなで評価会をしたり、何年か継続して公衆を受けた人がアドバイザー側にまわったりする仕組みをいれたら、みんなが楽しくやっているという話。 今の世の中、関わる人を「お客様」扱いしたら、そういう関わりかたしかしてくれない。 でも、仲間、一緒に考える人、気づいたら運営側に回っている、そんな仕組みを作れば、だんだん主体的に動く人が増えるんですよね。 みんな、おもろいことしたいやん?って感じをすごく受けました。 最後に僕の話の補足です。 習慣を変えるってすごく大事で、例えば、朝顔をお湯で洗うって人、多いと思います。 水からじゃーって流して、お湯が出るまでしばらく待つ。 で、流れる水がもったいないからつい我慢して顔を洗う。 洗い終わった頃にちょうどお湯が出てくる。 それならがんばって水で顔を洗えばいいんじゃないかな。 このとき、蛇口からボイラーまで、お湯が溜まったままになってます。 最初に捨てる水ももったいないし、配管に残るお湯ももったいない。 逆に、お風呂は、ある程度長い時間お湯を出しつづけるから、前後の無駄が大きくない。 そう考えると、台所の湯沸かしは目の前にある方が効率的なんでしょうね。 こういう細かな設計の見直しも省エネという観点からは重要になってきそうです。
ごみを出さない社会に協力する自治体がまた一つ
先日、福岡県大木町がもったいない宣言(ゼロウェイスト宣言)をした。 徳島県上勝町に続いて2つめだ。 東京の大きめの市で宣言するかもしれないという話はあるが、まだまだ小さい自治体ばかりでだ。 ゼロ・ウェイスト宣言というのは、「自治体で焼却・埋め立てごみを今すぐゼロにする」と誤解されがちだが、実際には「地域に入ってくるごみになるものを減らす」ことを視野に入れているし、20−30年先に、焼却・埋め立てごみをゼロにすることを目指して戦略を立てるというバックキャスティングアプローチをとっている。 人は壮大な目標の前では足がすくんで動けなくなってしまうものだ。 「ごみをゼロにしよう」という目標を前にした自治体も同じだ。 しかし、ごみをゼロにするために、まずはこれをやろうと考えることができれば、そして、実際にゼロにするまでの道程が示されていれば、目先の目標は壮大なことでもなんでもない。 これが、将来の目標を描いて、そこから今やるべきことを決めていくというバックキャスティングアプローチの便利な点だ。 来年の就職活動で一流企業に就職しようと思う学生にとってこの一年はものすごく貴重だ。 (ある意味、今の時点でそんなことを目指そうという段階で手遅れ感が強いので、よけいに貴重だ) 一年間でやるべきことは、まず現状と目標をよくしり、両者の差をしっかりと認識することだ。 この作業をやったうえで、今何をするか、次になにをすればいいのか、計画を立てていく。 上勝町の場合には、2020年に焼却・埋め立てごみをゼロにするという目標を立てて、ごみの34分別を行っている。 現在はリサイクル率が80%近くと驚異的な水準に達している。 ここで課題になるのが、「これ以上、自治体のごみ収集・処理現場でやることがあるのか」という課題だ。 むしろ問題は、地域に入ってくるごみである。リサイクルに出した素材がちゃんと商品に生まれ変わっているかという追跡可能性(トレーサビリティ)である。 これらのことが一自治体の手に負えるのか? 自治体が「住民が出したごみを処理する役割」から、「住民がごみを出さないようにする役割」へと変化するのが第一段階だとしたら、次の段階は「ごみが出ない社会にする役割」だ。 ゼロウェイストを目指した実践を積み重ねている自治体は、 「ここまでがんばったが、手に負えない。だから、こういう制度が必要だ」 という政策提言を行なうことができる。 上勝町の面白いのはそのための機関として「ゼロウェイストアカデミー」というNPOを設立して、連携しながら政策提言をしていることだ。 自分の役割に閉じこもるのを「公務員体質」というのだとすれば、自分たちの役割を超えて、社会にとって必要なことをどんどんやっていこうとする体質をなんと呼べばいいのだろうか。 今のことばだと「社会的起業」という言葉が一番近いのだろうか。 「社会的責任自治体」という用語がふさわしいのかもしれない。 もちろん、社会的責任自治体は、ごみ関係だけにとどまらない。 全国の中小規模の自治体に社会的責任自治体が増えてくれば、世の中も変わりはじめる気がする。 そこで果たす僕や、みんなの役割って何だろうか? ぼーっと眺めていて、見殺しにすることだけはしたくない。
技術が発展してコンピュータは面倒になってきた
インターネットへの常時接続がめずらしくなくなった今、期待していたような便利さを獲得できたのだろうか。 さすがに、通信環境のない時代を考えると、少々不公平な気がするので、15年〜20年前を考えてみよう。この頃はNiftyServeなどの電話回線でつなぐパソコン通信の時代だ。 この頃は、インターネットというものが出始めた頃なのだが、普通の人はパソコン通信で満足していた。メールは、自分が契約していた通信業者のアカウントを持っている人だけがやりとりできた。 もちろん、常時接続ではなく、使いたいときに接続して、接続した時間に応じて電話代と情報量を支払う形だ。 支出額は、だいたい月に5−6000円ぐらいが標準だろうか。 この頃できたことはと、考えてみると、メールだけではなく、掲示板で情報のやりとりもできるし、オンライン上で公開されているソフト(オンラインソフトと呼ばれていたかな)をダウンロードして自分のパソコンで使うこともできた。 結構いろいろなソフトが公開されていたので、日常の使用に困ることはなかった。 で、ウィンドウズ3.1の時代になり、インターネットの時代になり、技術が発展してきたわけだが、これといって便利になったことって何かあるのだろうか? 最近、パソコンを触っていて、いらいらすることが一つあって、こういうことを考え始めた。 パソコンを使っていると、急にウィンドウが立ち上がって、「最新の更新が公開されています。ダウンロードしますか?」とか、それならまだしも、勝手にデータをダウンロードしてインストールするツールもある。やけにパソコンが重いなと思ったら、インストール中だったりする。 あげくに、「今すぐ再起動します。」とくる。 僕がやりたいのは、最新のソフトを使うことではない。 パソコンを使って作業がしたい。 それだけだ。 確かにセキュリティの問題はあるのかもしれないが、普通の人が普通に使っているパソコンにとって、セキュリティのリスクはそんなに高くない。 (いたらんサイトばっかり見てたらあかんけどね) セキュリティアップデートの緊急性は実はそんなに高くないんじゃないかと思う。 少なくとも、「今から仕事するぞー」ってときに、「あ、その前にソフトをアップデートして、再起動してね」とか言われると、すっかりリズムが狂ってしまう。 集中するのを邪魔する仕組みっていったい何だろう。 RSSリーダーなどの、ネット上で公開されている情報を勝手に集めてくれるソフトも利用者が増えてきている。 一見便利なのだが、よくよく考えてみれば、NiftyServe時代には、「自動巡回ソフト」というものがあり、指定した会議室から最新のデータをダウンロードしてくれたり、ソフトをダウンロードしてくれる。 そしてこれは、予約しておけば、適当な時間にやってくれるので、読みたいときには準備ができているから、別に常時接続である必要性はそんなに感じなかった。 情報公開したい人も、Niftyなどの会議室に、それぞれのエッセイなんかを投稿してもよかった。 そう考えると、ブログなどが情報公開のハードルを下げたと言われているけれども、必ずしもそういうわけでもない。 オンデマンドビデオや多チャンネルにいたっては、全く不要な仕組みだしね。 テレビのおもしろいところは、翌日人と話が合うところだろう。 それがみんな違うものを見ていたら、純粋にコンテンツのおもしろさで勝負するしかない。 けれども、数多くのテレビ局が24時間番組を放送するのだから、才能が各局にばらけてしまって、おもしろいものを時間をかけて作ることもできない。 少し昔話をしてしまいました。 結局、ネットがどうこう、最新のソフトがどうこうといっても、「仕事に使えるかどうか」がやっぱり大事だってことです。 仕事に集中させてくれるOSは何か、ソフトは何か、を見極めていく必要がある。
牛乳パックとヨシで紙すき
4月から肩書きが変わります。 毎年、肩書きが変わって、付き合う方は大変ですね。 去年は助教授→准教授でしたが、今回は准教授→教授です。 来年はまた、教授→准教授だったりするのでしょうか。 こういうケースは、若くして教授になって、別の大学に移ると、そこの規定では准教授としてしか認められないってケースでよくあるみたい。 念のためにいっておくと、僕はしばらく移るつもりはありません。 昇進させてもらったお礼奉公というのがやはりあるんだろうと思っています。 (でも、おもろそうな話をいただけば、ぴょんと飛びつく可能性はありますね。特に大学以外の話だと) ちょうど、自分の名刺が切れていたこともありますので、なにか話のネタになりそうなものを探していたところ、いいものを見つけました。 大和川のヨシと牛乳・酒パックを使って、紙を手漉きしている工房です。 以下、調査レポートです。 以前(といっても、1999年)、再生紙とびわ湖のヨシを使った名刺を作りました。 印刷の具合もよく、コシもあって、なかなかいい名刺でした。 当時鹿児島に住んでいたので、鹿児島でびわ湖のヨシというのもちょっと遠いかなと思って、いつのまにか使うのをやめてしまいました。 関西に戻ってきて、4年が経ち、そろそろ地元とのつながりもできてきたので、名刺もぼちぼちびわ湖のヨシなど使ってみてもいいかなとおもっていたところ、友人が大和川のヨシがあるよと教えてくれました。 それが紙再生工房という平野区にある工房です。 ここでは、12名の知的障害者と3名のスタッフが仕事をしており、福祉作業所にしてはめずらしいと思うのですが、紙だけを生産しています。 紙漉きというのは、簡単にいうと、細かく砕いた紙の原料を水にとかしたものを網ですくって乾燥させるという作業です。 なんとなく、紙漉きキットのようなものがあって、それでやっているのかなと思っていたところ、結構本格的な設備が整っていました。 大きなものは、大型のごみバケツに船のモーターをつけた「ミキサー」とできた紙を圧縮して厚みを均等にするローラーです。 紙漉の場所は、調理室などにある深めのシンクです。 以下、紙漉の行程。 1.紙箱工場(紙工会社)からもらってきた牛乳パック・酒パックなどの表面のビニール・アルミを手ではがし、こまかくちぎる 2.ちぎった紙を水と混ぜてミキサーで砕く 3.砕いた紙をざるでこして、取り出しておく(ここではプラスチックの衣装ケースにいれてました) 4.こしたものに色づけ(色画用紙などを使う)したり、ヨシを入れる場合はここで混ぜる 5.シンクに水を張り、規定量の原料(タネ)をいれて、紙を漉く 6.掃除機のようなもので水を吸い取る 7.板に載せて、乾燥 8.1日ぐらいで乾燥するので、ローラーをかけない場合はこれで完成 9.ローラーをかける場合は、かける(ローラーをかけると、表面が平らになり、普通の紙になる。手漉きの風合いがすきな場合は、8で止めておく方がいい) 書いてみたら、かなりの工程ですね。 ヨシは、自転車のパーツや釣り具で有名な堺市の企業、シマノさんが取り組んでいる活動の一環として提供されています。 なんでも、刈り取ったヨシからリグニンを溶かし出すためか、アルカリ処理します。ここまでシマノさんがやってくれて、それを原料として供給してくれるそうです。 来年度は、この大和川再生事業にもぜひ参加して、自分の刈ったヨシで紙を作りたいものです。 こうしてできた紙だけでもいい感じなのですが、ここの特徴は、この紙を印刷素材として利用することを考えていることです。 オリジナルデザインのものもいい感じのものが多いですし、僕のように自分の名刺のデザインを持ち込んでもよいようです。 紙を加工したり、印刷したりして最終製品として供給するというのは、1次産品を販売するのではなく加工食品を販売することで付加価値を高めようという活動と通じるものがあります。 おそらく、そのときに活きてくるのが「紙再生工房」という魅力的な名前です。 福祉作業所の仕事が、ちゃんとビジネスとして成り立つように一連の仕組みをデザインしているところに、施設長の前橋さんのセンスが感じられます。 ちなみにこの工房ですが、家内工場というのかな、3階建ての住居の一階がガレージのような倉庫のような感じになっている建物を使っています。 この建物、70年代ぐらいに建てられていそうですが、普通に住めそうな家ですし、周りも同じ頃建てられたと見える家が、びっしりと家が建っています。 地域コミュニティがちゃんとできあがっている住宅街の一角という感じです。 町中にこういう工房があるというのは、地域の人にとっても、昼間働いている人が近くにいて、地域を見守っているという意味で安心感をもたらします。 もっともっと、町中の工房、見直されていいんじゃないかなという気がしました。 当日、写真を撮ったのですが、同行の学生たちと撮った集合写真のようなものなので、掲載は控えておきます。 次からはちゃんと掲載用の写真を撮ります。 名刺ができたら・・・出会った方に配りますので、受け取ってくださいね。