人前で話すNGその2:すべてを話そうとする

人前で話すときに見かけられる悪い癖の二つ目は、調べたことをすべて話そうとすることです。 これはいったいどういうメンタリティなのか、話を聞きながらついつい分析してしまいます。 知っていることを全部話そうとする人の傾向を見ていると、負けず嫌いな人が多いように思います。 誰かに突っ込みを入れられると、ムキになって反論します。 たいていは、そもそも突っ込みを入れられないように、できるだけたくさんの情報を話につめこんで、話に穴をなくそうとします。 このタイプの発表で典型的なのは、早口で何を言っているかよく分からなくて、補足が多すぎて言いたいことがよく分かりません。 おまけに、たいてい発表時間をオーバーしてしまうので、コメントをもらう時間はありません。 質問に答えられないと問題だ!と過剰に準備する傾向も見られます。 想像つく人もいるかもしれませんが、官僚や公務員にこのタイプは多いですね。 人前で話すのは、相手の意見を聞くためです。 発表や会話は相手を屈服させるものではないとまず言いたいです。 相手とのコミュニケーションで生まれるものを発表の成果として持って帰るべきなのです。 必要以上に質問やコメントを怖がるのは、自分が完璧でないといけないと思うからでしょうか。 むしろ、想定外の質問をもらって、一緒に考えるために発表というのはあるのです。 最大限に評価された発表は、自分が答えられない質問をしてもらったときだと考えてはいかがでしょうか。 論文を書くときも同じなのですが、集めた資料や分析結果を全部利用しようとすると、まともなものにはなりません。 手元にある情報から必要なものだけを厳選し、論理を構築し、物事を明らかにするのが論文であり、研究報告です。 何を捨てられるか、その判断がきちんとできるようになれば一流の学者と言えると僕は思っています。 僕自身、努力しているところなので具体的な指針を書く能力はありませんが、主張を伝えるために必要最低限のものだけで構成されているのが理想の姿だというイメージは持っています。 すべてを話そうとするときの問題がもう一つあります。 話がごちゃごちゃして何が言いたいか分からないと書きましたが、まさにそのことです。 たくさんのことを話してしまうと、聞き手が大事だと思うポイントが自分が伝えたいポイントとずれてしまうのです。 また、あまりにたくさんの論点を詰め込むので、一つ一つの証明の精度がいい加減になります。 すべてを完璧に証明しようとして膨大な情報を利用するのですが、その一つ一つの情報を精査できなくなる可能性があります。 そして、そのあいまいな一つの情報がすべてを台無しにすることも多々あります。 何でも知っている人よりも、本質をついた一言を言う人の方が評価されますし、言葉自体も後に残ります。 発表では言葉を惜しみましょう。

人前で話すNGその1: 報告資料を読むだけ

以前のゼミ生が「人前で話すということ」を読んで、某県庁の面接試験の際、非常に役立ったという話をしてくれたので、続きをぼちぼちと書いていきます。 まずは、その1:報告資料を読むだけ、です。 用意してきた原稿を読むだけの人、多いですよね。 しかも下を向いて小声でぶつぶつ読むだけの人とか、聞いているといらいらしてきます。 学会や講演でこういう人に出会うと、僕はさっさと部屋を出ます。 こんなのを相手に時間をつぶすくらいなら、外でお茶飲んで誰かと情報交換したり、本でも読んだ方がましです。 音読を聞いて理解するためには、少し遅めのスピードで音読しないと理解できないといいます。 つまり早口で資料を読むと、誰も理解できないということ。 せめてその資料が配付されていれば、報告を聞かずに、聴衆が自分で資料を読んで理解することはできます。 じゃあなぜ報告資料を読むだけの発表をしてしまうのか。 間違えるのが怖いからですね。 一生懸命吟味した文章を一言一句読めば、普通は間違えない発表ができます。 だから、ついつい読んでしまう。 こういう人たちは、自分がミスをしないことにだけ関心があって、相手に伝えることに関心がない人、あるいは余裕がなくてそういうことに気が回らない人です。 下手なことを言って批判されたり突っ込まれたりするのは確かに怖いことです。 でも、発表って話題を提供し、議論を喚起するためのものでもあります。 ちょっとした間違いがあっても、相手のイマジネーションをかき立てれば、発表は成功だと思います。 「うまくまとまってたね」という評価よりも「突っ込みどころ満載やけど、おもろいね」の方がほめ言葉としては上です。 ちなみに、細かいミスをねちねちと突っ込む人は、発表者を窮地に陥らせます。 けれども、そういうことで窮地に陥った発表者に対して、会場の聴衆は寛大です。 「くだらねえことで、時間使うな。発表者をいじめるな」 と思っている人が大半です。 ところが、報告資料を読むだけの発表をしてしまうと、聴衆をいらいらさせてしまうので、発表者が細かいミスでいじめられても、同情してくれません。 「くだらない発表するから、そういう目に遭うんだ」 って評価です。 報告資料を読むだけで逃げたくなったとき、自分はなんのために発表をしているのか、そのあたりをもう一度考えてみましょう。 安全な発表をしたいという誘惑を振り切ることです。

28年目の「帰郷」

こどもの頃住んでいた場所を28年ぶりに訪問した。 三重県名張市桔梗が丘という駅から歩いて15分ぐらいのニュータウンだ。 まず、バスを降りた場所が、いったいどこかよく分からない。 とりあえず、坂を上ったところのはず、と思ってちょっと歩くと、見覚えのある名前の表札を見つけた。 当時すごく仲良かった友人の名前だ。 庭仕事をしていたおじさんと目が合ったので、ちょっと会釈をするものの、自己紹介はやめておいた。 たぶん友人の父親だと思うのだが、当時も会った覚えがない。 大阪のベッドタウンのせいもあるだろうが、当時、友人の父親に会ったという記憶はほとんどない。 みんな忙しく働いていたんだろうな。 さて、僕の家はもう少し歩いて、バスどおりから二本内側に入ったところ。 角の幼なじみの家は改築されて、すごくきれいになっていた。 向かいの平屋の倉庫のような空き家のような不思議な家も以前のまま。 で、僕の家は?と思ってみると、ちゃんと立っていた。 以前のままで、立っている。 築30年以上で壁が色あせていたけど、ちゃんと僕の住んでいた家だ。 今は別の人が住んでいるので、写真をこっそり撮って、すぐにその場を後にした。 街は思ったよりも変わっていて、なんだか曲がり角がよく分からなくなっていた。 少し歩いていると、その理由が分かった。 街がよく分からなくなっている理由は、街路樹や庭木のせいだった。 30年の間にどの木も巨大になっていた。 こうやって歩いてみると、当時からすごく木をたくさん植えたようで、街中緑に埋まっているような感じ。 ちょっとずつ記憶も戻ってきて、親友達の家を訪問してみる。 先ほど訪れたF君の家、T君の家、M君の家は改築されてすっかりきれいになっている。 今は歌手になったH君の家は古いままで、昔の面影どおりだった。 28年の時を経て、街を歩くと、こんなに狭い街で僕は暮らしていたんだなって思う。 幼稚園の頃は、友達の家に一人で行くことがすごいことだと思っていたけれど、歩いてほんの数分、わずか2ブロックだった。 幼稚園まではバスで通っていたけれど、大人の足だと20分もかからない。 小学校まではもっと近くて10分かからない。 なんだかガリバーになったような気分。 実は、小学校3年の終わりに転校して、一度も手紙を送っていない。 何度も手紙は書いたけれど、なんだかふさわしくない気がして結局送るのをやめた。 故郷を離れた心の傷が深かったのかも知れない。 再訪して気づいたけど、桔梗が丘は僕の故郷だった。 なんとなく、自分は何度も引っ越したから故郷がないんだと思っていたけど、ちゃんと故郷があった。 わずか1時間の滞在だったけど、昔のことを思い出せたいい一日だった。

市場と共進化

とあるアクション小説を読んでいたら、量子力学とInteligent Design(知的創造っていうのかな?)の話が出てきた。 振り返って自分の研究テーマである経済学を考えると、経済学ってあまり進化ってことを考えない学問だ。 一部に、進化経済学というものがあったり、イノベーションを考えることはあるが、亜流というかなんというか、メインストリームではない。 でも、やっぱり市場やその構成員である生産者も消費者も進化すると思う。 たとえば、インターネットの発展で消費者が持っている情報量は爆発的に増えたし、口コミによる宣伝手法も考えられるようになった。おまけに情報のやりとりにかかるコストはほとんどゼロになった。 これでも以前と同じような物々交換の市場に毛が生えたような市場とおなじ理論が通用するのだろうか? (完全競争市場という意味では、インターネット上の市場の方が近いかもしれないけど) 僕たちはこの市場とそのプレイヤーの進化をどう考えればいいのだろうか? 普通の経済学では、市場で扱われる商品は単一だし、消費者も生産者も均一だと考えている。 そして需要と供給の調整は価格と数量を通じて瞬時に行われる(=均衡が達成される)と仮定する。 だが、実際にはこの調整には時間がかかるし、均衡が実現するまでに市場の前提条件が変化する可能性だってある。(不均衡動学という分野が実はある) おそらく、現代の競争環境はまさにそうなのだろうと思う。 たとえば携帯音楽プレーヤーの市場。 iPodの優位はなかなか崩れないが、これに本来なら拮抗するような魅力を持ったブランドや製品が立ち向かってきている。 しかしそのたびに、アップルは市場の仕組み自体を変えて対応する。 超軽量プレーヤーがそれであるし、iTunesという楽曲を大量に取り込める音楽管理システム、iTunesミュージックストアというiPodとセットになった音楽配信システム、次には携帯電話とプレーヤーが一体となったiPhoneである。 この間には、著作権保護システムの緩和策もあるし、独自の音楽フォーマットも含まれる。 アップルはさまざまな形で市場のルールを変えてきた。 こういうルールが変わる市場において、経済学は何が言えるのだろうか? ルールを変えるプレーヤーはずるいと言うのだろうか? ルールが変わればそれはもはや別の市場だから、先ほどまでの分析は適用できないから、一から考え直し、というのだろうか? 市場のルールや、消費者の在り方、生産者の生産体制などがめまぐるしく変わる現代で、経済学はどの様な役割を果たせるのだろうか? なんだか悩ましいテーマなのだが、世界にはちらほらとこういう課題に取り組んでいる経済学者もいるようだ。 少し意識的に追いかけていこうと思うので、ここでも情報発信できればと思う。 僕自身のばあいは、どういう競争環境になっても、経済がどういう状態になっても、「社会には守るべき価値がある」と考えていて、その価値をどう守るかを考えるかというのも経済学の役割なのかなと思うようになっている。 個人的には、しばらく、この方向で研究をしていくつもりだ。 興味がある方は、直接アクセスしてもらいたい。

二週間に五回の講演

大阪市主催の講演会に呼ばれて五会場で講演してきました。 環境家計簿をつけるコミュニティづくり事業「なにわエコライフ」の一環でした。 お客さんは各回20-30人。 せっかく市がやるんだから、もう少し人が多いといいんだけどなあとつい思ってしまいますが、人ってなかなか足を運んでくれないものですよね。 今回の要請は「笑わせてくれ!」、でした(笑) 「いいお話を」「厳密な話を」「学界の最先端を」とか、「泣かせて欲しい」などよりももっとも難しい陽性な気がします。 よく、関西人を見たら「なんか笑わせて」って言う人がいますが、ちょっと困りますよね。 こういうときだけ、「いや、僕は正確には関西人じゃなくて福井人ですから・・・」とかいって逃げるんですが、今回はそうも行きませんでした。 何かネタを仕込んでいくと間違いなく滑りそうだったので、事前準備はやめておいたのですが、お客さんのノリがよくて、普通に話していてもけっこう笑いが出ました。 よかったよかった。 ところで今回は、同じ内容を五回というリクエストでした。パワーポイントは同じものを使ってやりました。 が、おんなじことを何回もと言うのは案外難しくて、同内容のはずがやればやるほど長くなっていきます。 講演時間オーバーする人って、あちこちで何度も同じことしゃべってる人なのかも。 僕のばあいは、いただいた時間に終わらせるというのが仕事としてやっている以上、最低限の条件だと思っているので、オーバーすることはないんですけどね。 9月の講演はこれで五回もやったことになるので、打ち止めです。 この先は、10月は二件、11月は三件、12月は1件ですね。 ということは、12月はまだ受ける余裕があります。 そろそろお話会も再開したいな。

熊本の川辺川ダム計画が白紙撤回

先日熊本県知事の蒲島氏がダム計画に反対する意向を表明したことを受けて、政府が方針を変えた。あの川辺側ダム計画が白紙になった。 正直、おどろいた。
川辺川というのは五木村という熊本県の山奥の村を流れている川で、最終的には球磨川に合流して八代平野経由で海に流れ込む。五木村はほとんど宮崎県との県境だ。 ほとんどの熊本県民が現地を訪れたことすらないのではないだろうか。そもそも、八代と熊本市では地域が違う。 そんな川辺川の問題がなぜここまで大きな問題になったのか、そして大きな問題にできたからこそ、今回の計画白紙撤回へとつながったのだと考える。 一般に生態系が豊かな場所の保護というのは非常に難しい。 関係する人が少ないから、社会的な問題になりにくいのだ。先日、鳴き砂で有名な京都の琴引浜のすぐ横の砂が大規模に採取される計画の中止を求める裁判が提起された。 が、反応は鈍そうだ。 あれだけ貴重な自然なのに、多くの人は反応しない。 自分から遠いからだ。 生態系は、個々の狭い地域の問題として、多くの人から切り離され、各個に破壊されていく。 川辺川ダムのばあいには、熊本市の人々が動いたことが大きいように感じる。 地元の反対を無視せずに、自分たちの問題として都市の人間が考え、サポートした。 それが、熊本県全体の問題となった。 今回の中止には、粘り強く反対を続けてきた(40年!)地元の力と熊本県の財政難の問題も大きかったが、最後の一押しで、都市部住民の関心が効いたように思う。 一つ覚えているのは、川辺川の尺アユを販売したこと。 都市の市民団体が、川辺川の尺アユの販売を引き受けて、ダムの補償よりも大きな収入を地域にもたらす!と意気込んで始めた事業だ。 毎年、事業を実施しているようだが、この営業を通じて、おいしいアユを食べたいという一般の人と、そのアユが川辺川ダムの建設で食べられなくなるのだな、という気持ちを結びつけた。 反対運動はがんばればがんばるほど周りが引いてしまう問題がある。 そこで、多くの人の共感を得るには何が必要なのか、まだまだいろいろな工夫があると思う。

人前で話すということ

木曜は3年生のゼミの報告会。日曜は放送大学の大学院ゼミ。 あわせて、20人(グループ)の発表を聞いた。 これだけまとめて聞くと、発表が上手な人、下手な人の違いについて一言二言述べたくなる。 いずれも研究発表なのだが、話し手の情熱が伝わってこない発表は魅力がなかった。 研究と情熱はあまり関係がないようにおもうのだが、短時間の発表で何が伝わるかと考えると、「もっと知りたい」という気持ちを相手に持ってもらえるかどうかなのだと思う。 学生だと、「ほんとは興味ないんですけど、割り当てられたからやります」と最初に話したり、態度で示したりする人がいるが、ネタにしても、これほどくだらない発言はない。 「だったら、今すぐやめて帰れ!」と怒鳴りたくなる。 発表することはとても怖いことで、ましてや自分の情熱を表に出すことは、否定されたときのダメージが大きい。 「僕はこれが大事だと思う!」 という主張を裏付ける発表をしたとして、「いや、その問題はまったく大事じゃないから今すぐやめなさい」といわれたときのダメージを想像すると、つい、やる気のない振りをして、否定されてもダメージが大きくないように防御姿勢をとる。 情熱を表に出さない、守りに入った発表をする人を「くだらないやつだ」と思ってきたけれど、最近、これってもしかして、自分に原因があるのか?と思うようになった。 「自分の思っていることを否定されるかも知れない」という気持ちは、誰にでもあって、僕も話をする前にそういう思いで、すくんでしまうことがある。 じゃあなぜ「否定されるかも」と思うのか。 場の雰囲気だ。 発表者が、発表する場を信頼していれば、防御的になる傾向は減るし、信頼できなければ防御的になってしまう。 「意見を頭から否定する」ことと「研究手法や論の展開」を否定されることとは違う。 前者は、発表者の想いを認めないということであるのに対して、後者は純粋にプロとしてのアドバイスだ。 僕がコーディネータや指導教員であれば、「否定されそうな場」か「自分の意見を認めてくれそうな場」かを作る責任は僕にある。 どれぐらい発表しやすい場を作ることができるか、もっとやってみようと思ってもらえるような場づくりができるか、こういうのが今の課題だ。 他に発表の善し悪しを決めるのは、次のようなものがありそうだ。 いずれ時間を見つけて詳しく書いてみたい。 悪い発表 1.報告資料を読むだけ 2.調べたこと、やったこと、すべてを話そうとする 3.パワーポイントを使うのはよいのだが、とうてい読めないほど小さい字で書き込む 4.主張が表に出過ぎて、論理展開ができていない 5.最初に展開を示さないから、何をポイントにおいて話を聞いてよいか分からない

辻信一さん編集の本に書かせていただきました

GNH もうひとつの〈豊かさ〉へ、10人の提案 がそれです。 僕の写真も出てたりします。 ちょっと、どういうことになるか、どきどきします。 経済学を学ぶ者として、言い過ぎた部分とかもあるんじゃないかなとか、本来はもうちょっとデータを出しながら書いた方がよかったかな、などなど。 ただ、僕が直感的に感じていることを話したものを記録してもらったという意味では、すごく大切な本。 僕が何を考えて研究しているか、分かってもらえるんじゃないかな。 見本がくるのが楽しみです。 感想、お待ちしています。

「おいしいコーヒーの真実」は勇気を与えてくれる映画だ

コーヒーというのは、ニューヨークの商品取引所で、原油についで取引額が大きな商品だという。 そこで決まる価格は世界のコーヒーの買い取り価格を決定する。 確かに僕たちが飲むコーヒー、ときどき値上げされるのはそのためのようだ(けど、値下げされることはあまりない)。 ここ最近は、金余りの影響でさまざまな商品の価格が上がっていて、コーヒーの価格も上昇している。 けれども、その前はコーヒー価格が暴落していた。 食料品の価格が国際市場で決定されることは、商品を買う側にとってはとても都合がいいことだ。 世界のどこかで不作でも、別の場所は豊作だったりする。 そして、世界全体では食料が余っているから、価格はいつも低めに抑えられる。 本来、市場では豊作のときは価格が下がるが、量が出るので収入へのダメージは少ない。凶作のときには生産量は少ないが価格が上がるので収入へのダメージも抑えられる。 しかし、国際社会全体で食料が余っていたら、凶作のときすら価格は低いままだ。 豊作のときも、世界全体への食料供給と需要はそんなに変わらないから、価格の低下を補うほどに販売量は増えない。(むしろ、仲買人に買いたたかれる分だけ生活は苦しいはずだ) そんな食品の一つがコーヒーだ。 グローバルなコーヒー市場で、少しでも生活をましにしようと努力するエチオピアの生産者組合の代表の姿を追ったのがこのドキュメンタリー「おいしいコーヒーの真実」だ。 彼は、コーヒー生産者とその家族がまともな暮らしをできるだけではなく、自分たちの仕事と国に誇りを持てるようになることを望んでいる。 映画に出ていたエチオピアの生産者たちは、生活が苦しいなかで、フェアトレードで収入が増えた分を自らの暮らしのために使うのではなく、子供たちの学校を作るために使うことを選択した。 僕たちがフェアトレードを通してつきあっている生産者はこういう人たちなんだ、と実感できる。 「ほうら、グローバル企業って、こんなに悪いでしょ」という糾弾ともとれるかもしれないが、僕には、コーヒー一つとっても、僕にでもできることがあるんだと解釈した。 みんなにぜひ見てもらいたいなと思う映画だ。 大阪では、十三にある第七藝術劇場で7月末から上映される。 ややこしいことを言わずに、まず、この映画を見てほしい。 この映画、友人でフェアトレードプロモータスという団体を運営している酒井さんがカフェスローOSAKAで実施した関係者試写会で見ることができた。 昨年、NHKのBSドキュメンタリーで抄録が放映されているのを見損なったときからみたかった映画だったので、なんとか時間を作って見に行くことができた。 人の誘いには、忙しいとか、他にやることがあるとか、つい言ってしまうが、この映画を見るより大事なことってなにかあったんだろうかと、僕は今思う。 内容もそうだが、こういう表現手法があるんだということも僕には大きな驚きだ。 ドキュメンタリーという手法の持つ大きな力と可能性を僕は感じることができた。 援助を待つ人を見ながら、援助団体の男性が語る言葉も印象的だった。 「施しを受ける大人たちを見て子供たちは育つんです」 人として、学者として、僕に何ができるだろう。 そう考えて、いくつかのプロジェクトを始めることにした。 まだ思いつき段階なので、これを広めることができるかは分からないけど、少し企画を練ることにしよう。 ちなみに、カカオの児童労働のビデオもあったのでリンクしておく。 (追記:これは、やらせが入っていて問題になったんだそう。 普段は、木に上ったりはしていないらしい。 誤解を招くので、削除した)

講演依頼について

最近、けっこうたくさん、講演を依頼していただけるようになってきました。 持続可能な社会づくりに取り組みたいという人が一人でも増えるためにはすべてのお仕事を引き受けたいという気持ちはあります。 謝金も払えるだけ払っていただくか、別の形(例えば、今後の協力とか)でいただいてもかまいません。 (とにかく、謝礼のことは気にしないでください) ただ、ここに来て仕事の量が僕の許容範囲を超えかけている気がします。 一つ一つの話のレベルを下げたくないということと、長く続けていきたいという思いから、せっかくのご依頼を断るケースも増えてきています。 決して仕事を選んでいるわけではありませんので、ご容赦ください。 いただいたお仕事を断るときにはすごく言いにくいので、基準のようなものを書いておきます。 僕が仕事をお断りする基準は、以下の4点です。 1.本業(大学での業務)に差し支えがある 2.その時間に別の仕事が入っている 3.仕事が多くて準備する時間がとれなさそう 4.その月は予定の仕事量を超えている 特に、最後の4番目ですが、基本的には月に最大2回程度に押さえようと思っています。 ご参考までに当面の予定を書いておきます。 7月:一杯 8月:0件(休養を兼ねて最大1件) 9月:5件 10月:1件 11月:1件 12月:0件 1月:1件 なお、ちょっとした会に出席する等のことは講演とはまた違いますので、遠慮なくご相談ください。 当然ながら、研究関係のご依頼は本業ですから、日程が合う限り優先的にお引き受けします。