パターン認識

11ヶ月になるこどもが、いつの頃か、犬がすごく好きです。 散歩していて犬を見つけると、「わんわん」(のようなこと)といって喜びます。 レトリバーも、ブルドック(?)も、チワワでも同じです。 どれも同じ犬って分かるのがすごいと思うのですが、さらには、絵本の犬の絵も同じようによろこびます。 アフリカの先住民に、シカとかガゼルの絵や写真を見せても、自分たちが普段捕まえている生き物と同じと認識できないという話がありますが、あれはほんとうの話なんでしょうか? こんなに小さな子に、これだけの認識能力があるのだから、彼らにそれができないというのは、質問の仕方が悪かっただけなのでは?なんて思います。 けれども、こういうパターン認識がすごく苦手というか、こどもの頃から発達していない印象を受ける学生が多いように感じます。 むしろ、理性が加わる分だけ、退化しているかも知れません。 大学生なら、抽象的な理論を現実にあてはめる=理論と現実の間のパターンマッチングができるはずなんですが、それができる人がほとんどいません。 それどころか、二つの事例間の相違を見つけることすら難しいようです。 これって、レトリバーとチワワと家猫を比べて、犬を抽出することができないってレベルの話じゃないのかなあ。 こどもは右脳で直感的に類似性を見つけるのに対して、事例間の類似性は左脳で理論的にやらなければいけないってことかな? 最近、意識して、学生にこのパターンマッチングをやってもらっているのですが、少し訓練すれば、わりとすぐに事例間の比較はできるようになります。 次はこういう比較を習慣化することなんですが、そこはハードルが高いようですね。 僕は学生にとってもっとも大事な能力が、二つの物事の相違点を見つけ、その原因を探ろうとする意識だと思っています。 そのうちの類似点を見つける能力が、1歳にならないこどもに備わっているのに、ちょっと驚いています。

地域活性化に観光は有効なのか

ふと思い立って、ロバータ・B・グラッツの「都市再生」を読み返していたら、中心市街地活性化のための観光振興について言及されていた。 この本は、アメリカの都市部の再生に関するルポで、参考になることが多い。 なんだか、熊本市がいまだに活性化のための区画整理をやろうとしているのを見ると、市長にこの本を贈りたくなる。 中心市街地を再生させるためには、既存住民が住み続けることに加えて、新規住民を呼び込む工夫が大切だと著者は言っている気がする。そしてそのためにも、コミュニティや街の造りは重要な意味を持つ。 これらを壊してしまう形態での区画整理は、もともとの良さは当然失われるし、できた街は多くの場合、日本中どこにでもある街になる。 (そうならないばあい、目新しいだけの暮らしにくい街になる危険も高い) 都市の問題を考える人は、一度は読んでみてほしい。 さて、観光の件だが、著者はドナルド・アップルヤード教授のこんな言葉を引用している。 「観察者は被観察物に影響を与える、という古典的現象のよい例であるが、観光客は自分の要求によって、訪れた土地の生活を微妙に、あるいは劇的に変えていくのである」(p. 35) つまりは、地域を観光振興することで、地域が別のものにかわってしまうリスクがかなりあるということだ。 そして、「あまりに多くの自治体が、地元住民や地元企業のお金を使って、訪問者用の施設をつくっている。ダウンタウンの住民こそが、都市がこの何十年かの間に失ってきた、もっとも価値ある資産である。」(p. 34)と指摘している。 僕のこれまでの調査経験でも、ほんとうにこの土地で観光業を振興していいのか?と思ってしまうことが何度かあった。 それは、地元経済と観光業がほとんど関連を持たず、観光客の落とすお金が地域に落ちない場合だ。そして、地域の人々の街や生活は、観光客の見せ物になる。 そういった覚悟が地元の人にあるのか?ということを観光振興の前に、まず問わないといけない気がする。

保育制度ってほんとうにこれでいいのかな?

こどもの保育園探し、ずいぶん苦労しています。 なんとか、入れそうなところが見つかりそうで、一安心です。 それはいいのですが、ちょっと気になるのが保育園に通っているこどもと育児休業の関係です。 保育園に通っているこどもの親が、次の子ができて産休・育休に入ったばあい、こどもは保育園を退園しなければなりません。 熊本市独自の制度なのかとも思ったのですが、これを見る限り、そうでもないのかも知れません。 そもそも、産休中、育児なんてできるか?という問題があります。 こども産んだばかりで大変な母親が、新生児のめんどうを見ながら、元気な3歳児の相手というのは、かなり大変そうです。 もう一つは、これだけ保育園の定員が埋まっている状態で、せっかく入った保育園をいったん退園してしまえば、その枠はすぐに埋まってしまいます。 お役所は、「余裕があれば定員を超えて復帰させてもいい」というケースもあるようですが、保育園側にそんな余裕なんてないでしょう。 育児休業中はこどもを養育できるはずだから、保育園に通わせる必要はないというのが、この制度の根拠です。 ですが、育児休業が終わって、職場に復帰しようにも、こどもを預ける場所がなければどうにもなりません。 すごい苦労をしてようやく見つけた保育園から退園しなくてはならないのだとしたら、次のこども、産みたくなると思いますか? なんか、すごくお役所的な考え方だなあって思ってしまいます。 とりあえず、役所関係者は保育園の入園、優先順位は自動的に最下位になるようにしてみたらどうでしょう。 そうしたら、本当の意味で、痛みがよくわかると思う。 こんなことを書いてはみましたが、実際のところ、こどもができるまで、育児環境への関心はまったくありませんでした。 なんというか、今まで関心を持たずに、育児は当事者にお任せという態度をすごく反省しています。 子育ては社会全体でしなければならないものだというのは、頭では分かっていたのですが、どうもまだまだ他人事だったようです。

シマフクロウの宿

目の前、わずか15メートル程のところに、シマフクロウがいる。 しばらくすると、二羽になった。 たぶん、実際には見れないこともあるんだろうなあとおもったものの、温泉だけでも魅力的だったので、この宿にした。 シマフクロウが来る宿として有名な養老牛温泉の藤やだ。 フクロウが何時に来るかは日によって違うというから、ゆっくり待とうと思っていたら、日が暮れるのを待つようにして、一羽現れた。 もう100羽程度しか残っていないと言われる天然記念物のシマフクロウ。 アイヌの人々はムラの守り神として大切にしたという鳥だ。 それが、目も前の池で魚をとっている。 今回の旅で出会った若手酪農家と自然ガイドは口を揃えて、自然は強いということを口にした。 多少の人間の干渉ぐらい動物は気にしない。 人口密度の低い北海道ならではの話かもしれない。 それでもシマフクロウがこれだけ数を減らしてしまったのは、干渉がちょっとぐらいという限度を超えたからだ。 今、環境省はシマフクロウ保護にいろいろと手を尽くしているらしい。 僕らが見聞きしただけでも、電柱の上の止まり木や、道路に飛び出すのを防ぐ黄色い旗、ドラム缶かなにかで作る大型の巣箱、個体にタグをつけての個体把握などだ。 トキにタンチョウにコウノトリ、ヤンバルクイナなど、保護の取り組みや成果はさまざまだけど、保護活動は、どこか(国がやっていることだから)と関心の外においていた。 自分にもできることがあるのではないかと、少し、考えたくなった。

Macの環境を構築中

先日、新しいMacbookAirが出ましたが、ついその1ヶ月前に旧型を買ってしまいました。 ちょっと失敗かなあと思うけど、買ってしまったものはどうしようもないなあと諦めています。 昔から、コンピュータは買いたいときが買い時って言いますから、次を待てるときは待てばいいけど、待てないときは買うしかないんですよね。 さて、そのMacboocAirですが、環境を構築中です。 以下、備忘録を兼ねた詳しい説明です。

環境構築

まずはクラウド関係のインストールです。 僕の場合は、DropboxとEvernoteがあれば十分です。 次に作業環境の構築です。 まずは、下準備として開発環境をインストールして、Homebrewをインストールしました。 今回は、Macportsをやめにして、もうちょっとシステムを上手に活用してくれるツールを利用します。 次に、Homebrewを使って、Emacsをインストールした後で、小川版pTexをインストールします。 これで、前のマシンの設定ファイルをコピーして持ってくれば、とりあえず、文書作成環境は動きます。 次に統計パッケージのRを入れたり、ブラウザ(Firefox)を入れる必要がありますが、それはちょっとまた今度にします。 Officeは、Microsoft社のものと、Apple社のiWorkをいつもは入れているのですが、今回はちょっと様子見です。 というのも、iWrokはあんまり使わないなという気がしますし、Microsoft社の方は、そろそろ新バージョンが出る予定です。 旧バージョンを入れてしまうと、新バージョンを入れたときに、ごみがハードディスクに残りそうなので、ここはちょいとがまんして、新バージョンを待ちます。 (10月26日に発送されました) ま、実際、次に書く文書作成環境があれば、僕はOfficeってほとんどいらないんですよね。 せいぜい、文書で使う図を書くぐらいです。そのためには、Power Pointがすごく便利です。

文書作成環境について

僕は文書作成環境として、org-modeというものを使っています。 これは、すごく便利で、テキストファイルっぽい書式で文章を書いておいて、いざ他人に見せるときには、フォーマットを変換して出力します。(といっても設定さえしてあれば、ほぼ自動です) HTMLとか、テキストの場合は、設定すらいりません。 見出しを大見出し、中見出し、小見出しなどとして、適当に指定しておけば、連番も勝手にふってくれます。 そういえば、博士論文を書いているときに、この連番を自動でつけてくれる機能欲しさに、自分でソフトを作りました。 とはいえ、HTMLでは印刷するときに、なんだかレイアウトがきれいじゃなかったりしますので、僕はTeXで出力して、PDFに変換しています。こうすると、レジュメとしてもなかなかきれいなものができます。 このために、先ほどの小川版pTeXが必要でした。

* エコライフの経済学 ** わりばし、マイはし ** プラスチックの焼却 ** リサイクル考 ** エコライフと技術進歩org-mode sample

例えば、こんな文書を書いておいて、「変換」すると、1秒くらいで、右のようなPDFファイルができあがります。 こういうのは、きちんと使い方を勉強しておけば、後ですごく楽できるので、多少時間がかかっても、勉強に時間をかけるべきです。 僕は授業で使うレジュメもそうですが、論文も大半はこれで書いています。

設定メモ

org-modeに関しては、以前設定したものを持ってきただけですので、特に設定は不要でした。 ただ、pTeXの方は、パスを通したり、設定ファイルを置き換えたりする必要がありました。 パスの方は、exportするだけなので、省略。設定ファイルは、/usr/local/teTeX/share/texmf/web2c以下にtexmf.cnf-teTeXというファイルがあるので、これをtexmf.cnfと置き換えます。 作業といってもこれだけでした。 以上で、以前通りの文書作成環境が完成です。

学生が体験:マイはしとマイボトル

エコかどうかは別として、割ばしとペットボトルの問題に対する代替案の一つとして考えられるのがマイはしとマイボトルです。 今回は、この問題を自分で考えてもらうために、ゼミの学生にマイはしとマイボトルを持ち歩いてもらうことにしました。 とりあえず、一週間試してもらっているのですが、みんな何を思うでしょうね。 個人的には、マイボトルの方が意義が大きな取り組みかなと思っています。 ボトル一つだけでは足りない!という人は、以前書いたように、ペットボトル、途中で買って、中身を入れ替えることをすすめます。 かばんの中には常にボトルが一本だけなので、めんどうなことはあまりないと思うけどな。 衛生面を気にする人は、コップが付いている水筒タイプだとペットボトルに口つけて飲むより、はるかにいいですしね。

マイはしと間伐材の利用

先日久々に講演をしました。場所は大阪府豊中市です。 講演でおはしの話をしたのですが、その件で、後で問い合わせがありました。 曰く「割り箸は間伐材を使用している。だからむしろ積極的に使用すべきなんだ」ということです。 間伐材の利用方法は、僕もいいものがないか考えていますが、割り箸がベストだとは思っていません。 また、奈良の吉野のあたりにいくと売っている吉野杉のわりばしは、とてもすばらしいもので、機会があれば買っています。 それでも、「割り箸を積極的に使おう」というメッセージに無条件には賛同はできないと思っています。 学生がそういう話を持ち出してマイ箸を批判するのを聞くと、「ちゃんと勉強しろ!」と言いたくなってしまいます。 この問題は、1)我々が使っている割り箸は間伐材なのか、2)間伐材は割り箸にするのがベストなのか、3)割り箸を「どんどん」使い捨てにすることはよいことなのか、といった辺りの問題を含みます。 以下、僕の評価を述べておきます。 データをもとにした議論をしたい気もしますが、少し下調べに時間がかかってしまいますので、いまはこのぐらいでご勘弁を。 そうそう、「衛生的に・・・」という人もいますが、これは宗教論争でしょうね。

1)割り箸=間伐材なのか

これは、あえてそう表示しているもの以外はバツでしょね。 5−600円の弁当についてきているものはまず違うはずです。 また、竹製の割り箸ならいいんじゃないの?という人もいますが、おそらく、原材料は竹林を大規模に伐採して作っているはずですので、もとは竹林とはいえ、土地が荒れてしまうことに違いはありません。 (たぶん、無限に生え続ける竹はない。) 中国の竹林が持続可能な方法で利用されているという話があれば、ぜひ読みたいです。ご存知の方はご教示ください。

2)間伐材は割り箸にするのがベストか

うちのリビングの床は、熊本の小国杉です。といっても、間伐材を使ったもので、そこまで高くありません。 間伐材って、実は直径10センチ以上のものもたくさん含まれていて、「割り箸にしかできない」ようなものではありません。 何本かを合わせて集成材にする方法もあります。 林業の収益が悪くなってきていて、間伐材が売れないと、商売の足しにならなくて、森を管理することができないと言われています。 僕はこの点について、森を守るのは、国土という観点からも重要で、農家に行われているような直接支払い制度などを用いて、採算を改善すべきだと思っています。 それに加えて、せっかくできた間伐材だから売ろうということで、利用方法を考える。 これはとてもいいことだと思います。 でもそれが、割り箸なのか。 マイ箸や塗り箸(あるいは、何度も使える箸)を使う人を「環境破壊主義者だ」と攻撃するような根拠になるのでしょうか。 間伐材とはいえ、大切に育てた木で、木材として立派に使えます。 国内で木が売れない、安すぎて商売にならないというのが根本原因です。 「割り箸=間伐材だから使わないとエコじゃない」という議論は、そういう問題から目をそむけてしまいます。 それこそ、エコ免罪符です。 短期的には割り箸にするのがベターな解というのは確かだと思います。 でも、それに安住していてはいけない。 長期的にはさらによい利用方法を考えることを今から始める。 だからこそ、今、割り箸にすることも認められるというものだと思います。

3)割り箸を使い捨てにすることはいいことなのか

僕は今の環境問題は、過剰な使い捨て文化がもたらしたと思っています。 その意味で、間伐材でできた割り箸を使い捨てにするなんてもったいないことはやめてもらいたいなと思います。 この世に、使い捨てにしていいものなんてないんですよ。 ものによっては、繰り返し利用ができなくて、代わりに循環利用がなされているものもあります。 だけど、割り箸は、そうじゃない。 身近な箸を使い捨てにすることで、使い捨て文化が、心にしみ込んでいくんじゃないかなと思います。 もちろん、他にも使い捨てにしていてもったいないもの、いろいろありますが、一つ一つ、使い捨てをやめていけるといいなと思っています。

終わりに

マイ箸を持ち歩いているのですが、なかなか身にはつきません。 だまっていて、先に箸を出されると、断りにくいし、友人と食事に行くときは、そういう話題を持ち出すことになると面倒と思い、ついそのまま割り箸を使ってしまったりです。 おまけに、ラーメンのような脂っこいものや、居酒屋では、箸がけっこう汚れるので、やめておいたり。 かたくなすぎるのもどうかとは思いますが、もう少しこだわった方がいいなと自分でも感じます。

旬のやさいをおいしく食べる(きゅうりとなす)

相方の実家から、旬になると大量のきゅうりとなすと、ときどきニガウリが届く。 どうしたもんかなあと頭を悩ませていたが、最近は良い方法を思いついた。 包丁で薄くスライスして、軽く塩をしてそうっともみ込んでおく。 もみ込むうちに野菜がしんなりしてくるので、少しずつ力を入れるようにすれば、折れるのを防げる。 塩は、なめてみて少し辛いかな?ぐらいがいい。 辛めの塩なので、3−4日は保存もできる。 食べるときは、これを少ししぼって、水にさらして、調味して食べる。 豆腐に載せたら、ちょっと豪華な冷や奴ができる。 僕は水にさらしてすりごまをかけるのが一番いいけど、ワカメと和えて酢の物にしてもおいしい。 ニガウリの場合はたたいてペースト状にした梅干しとかつお節をかけてもいい。 こうすると、普通に食事を作ってあと一品というときに、簡単に追加できる。 最大のメリットは、そんなにおなかにたまらないのに、一人1本以上軽く食べることができること。 たくさん食べないとなくならないので、ここは重要なところ。 他にきゅうりやなすをたくさん食べる方法ってあると知りたいなあ。

20キロの登りでばてた!

Googleマップとか、道路地図とか、便利なものがいろいろあるけど、ちゃんとした地図の読み方を昔習っているのだから、そういう地図が欲しくなりました。 「分かりやすい」というのはやっぱり初心者に向けてのもので、ほんとうに使えるものは、多少難しくても、やっぱり便利さが違うな、と。 たまには「休み」らしいことをしたいと思い、今日は朝から自転車で出かけてみました。 自宅から通潤橋までの40キロ前後の道のりです。 途中、相方が車で追いかけてくることになっていて、追いつかれたらそこでいちおう終わりという予定にしていました。 いろいろと自転車関係の本を読んでいると、40キロぐらいはサイクリングに毛が生えたものっていう感じみたい。 なので、まあ、現地で相方が来るのを待っておこうと思って出かけました。 ところが、40キロの道のりは楽なものではありませんでした。 なんと言っても、通潤橋は「山都町」=やまとにあります。 あの「邪馬台国」伝説の舞台の一つです。 邪馬台国は奈良がそうであるように、山の奥にあるとされています。 そこを目指していくのですから、多少の山登りは覚悟しなければなりません。 ちなみに、関西にいると「邪馬台国が奈良以外にあるわけないやん」って強く感じます。 が、九州に来てみると、「なるほど、こちらにあってもおかしくはないな」という気持ちから、住んでいくうちに、「もし、邪馬台国が九州でないなら、こちらにはそれよりも古い国が存在していたはずだ」という気持ちに変わってきます。(よね?僕はそうでした)

[caption id=”attachment_664” align=”aligncenter” width=”300” caption=”山都町の山の中にある大きな橋”]Bicyle100819[/caption] 途中、御船町の役場辺りまでで約10キロ。ほぼ、平坦な道のりでした。 今回はペースをあげないように注意したので、疲れもほとんどなく、 「なるほど、100キロというのがこの10倍なら、そんなに難しい話じゃないな」 なんて思えるぐらいでした。 役場をすぎて若宮神社の鳥居の横を通り過ぎると、風景はいっぺんして、山道になります。 山すそというのは普通、こう配が緩いものですから、最初はさしてしんどいとも思わず、ギアも後2枚ほど軽いのを残しながら登っていきます。 「まだ、後少し軽くできるぞ」、というのが、上りのときの精神的な余裕につながるみたいです。 後で、一番軽いギアでも上りに苦労するようになると、「もうやめようか」という思いが何度も頭をよぎりました。 そこから後の道のりは、ずっと上りでした。 最後、少しだけ下りがありますが、その後には、また登りが待っています。 途中、「ホテル邪馬台国」というぼろぼろのラブホの横を通ったり、おじいさんが運転する(信号停車中の)軽トラックにちょっとぶつかって怒られたりしましたが、その他は特にイベントもなく、ひたすら登りです。 一度、道の端に水しぶきがかかっている小さな滝では、頭を濡らして涼をとることができました。 涼をとると言えば、昨日は全国でも猛暑日を記録したみたいで、うちの辺りも35度を超えていました。 が、なぜかこのサイクリングはすごく涼しく快適に感じられました。 山からすうっと涼しいそよ風がおりてきて、それを感じながら走ることができるからみたいです。 そして、登りだけに、ふと横を見たり、振り返ったりすると、田んぼや森が広がっています。 九州って緑が濃いんですよね。 なんか、山が生きてる! 自転車で登っているといろんなことを考えるものです。 その前の日に読んだ、エンゾ早川さんの本に出ていた走行中のポジション(姿勢)の決め方なんかを思い出して、自転車の上で、いろいろ姿勢を変えてみたりもしました。 なんだか、今の走行姿勢がすごく非効率なものに思えて、「もっと楽になれるはずだ」と登りがきつければきついほど思ってしまいます。 そして、「こんな小径車じゃなく、ロードバイクにすればこんな坂、軽々行けるんじゃないかな。なんで俺はあえて小径車で山登りしているんやろ」なんて、既に新しいバイク(自転車)を買うことを考えてしまいます。 20キロをすぎた頃、けっこうな急坂と登坂車線の表示が出てきました。 この辺りから、歩く時間や休憩の時間が増えてきます。 カロリー切れで急に体が動かなくなるハンガーノックや、脱水症状、熱中症が頭をよぎります。 だいたい、8月19日快晴という日の昼間に自転車で出かけるというのがおかしい。 走行後、手を見てみたら、日焼けでグローブの線がくっきり。肌色とチョコレート色ぐらい色の差ができていました。 いろいろ考えて、出かける時間があるのは今日しかないと思ったからではあるけれど、やっぱりもう少し涼しくなった方がよさそう。 「今日しか時間がない」というのは、ついつい無理につながってしまう、危ない考え方ですね。 自転車乗りには、「坂バカ」という、登りが大好きな人がいるみたいですが、なんとなく、その気持ち分かります。 自分の力で進んでいるという実感があるし、適切なギヤを使うと、そこまで足の力がいる訳でもないので、なんだか気持ちがいいんです。 体動かしてる! 事務作業で眠っていた筋肉が一つずつ目覚めていく感じ。 山の上り坂で、自転車を車で追い越すとき、「大変そう」って思うんですが、登っている本人は、そこまではしんどいと感じていないのかもしれません。 もう少し、トレーニングを積めば、もっと坂が好きになってしまいそうな感じもあります。 まあ、それはさておき、20キロをすぎて、坂登りも10キロを超え始めると、いろんなところにダメージがではじめます。 まず、手がしびれてきます。 そしてお尻というか、股間というか、サドルに当たっている部分もしびれてきます。 最後は、膝に痛みが出てきたので、そこでほぼギブアップです。 うまくしたもので、膝が痛くてもう乗れないというか、乗らない方がいいと判断したすぐ後に、相方が車で追いついてきました。 通潤橋まであと5キロ前後というところでした。 相方に車で通潤橋まで連れて行ってもらって、通潤山荘で温泉です。 (ここのお湯は塩素がきつくて、いまいちでした。露天風呂は広くてきれいなんですがね) トータルで40キロ弱。 地上が13キロ、登りが25キロです。 通潤橋までは、後一回、急な長い登りが待っていたので、まあ、今回は無理だったんでしょう。 次は行けるかな? それにしても、ちゃんとした地図で高低差を見ておけば、ここまできついコースを選ぶことはなかったんじゃないかなあ。 前回(というか、初めて)の西原村行きもずーっと上りだし、今回はもっときつい登りが延々とでした。 体力的にはまだまだ余裕だったんですが、足(と手と股)が限界でしたね。 ライディングポジションの調整で少しはましになるのかも。 次は、三角町を超えて、天草に行ってみよう。 これなら、そこまでの山もないし、温泉もあるし、おいしい魚もあるしね。 できれば、ハモの季節が終わらないうちに行きたいなあ。