落ち葉そうじの幸福

今日から一週間、ごみ置き場の掃除の順番がうちにまわってきたので、相方と交代で担当することにした。 ちょうど今日は熊本で打合せが入っていたので、僕が担当することにした。 (それに、先週の週末は入試で出勤だったので、2週間前の日曜から休みなしだった。) 相方とこどもを送り出して、収集所に行ってみると、まだ収集にきていない。 それから、原稿を書いて、疲れたら見に行くことを繰り返すうちに昼になり、打合せの時間が来てしまった。 打合せを終えて、2時半に帰宅してみると、ようやく収集が終わっていた。 今日はプラスチックごみの収集だったから、掃除も楽で、簡単にすんだ。 そして家に帰ってみると、敷地の入り口から、玄関まで、結構な量の落ち葉がつもっている。 夏頃に、何に使うねん?と思いつつ、なぜかこどもがほしがったので、買ってみた熊手の出番がついにきた!と思って、落ち葉をはきあつめた。 15分程度だったのだが、落ち葉を集めるのは、けっこうめんどうで、丁寧な仕事が必要だった。 落ち葉を集める作業なんて、誰かにお金で頼めばやってくれると思うんだけど、たぶん、いちいち頼んでいたら、うちは破産してしまうだろう。 だけど、そもそも、豊かになるというのは、そういうことなんじゃないのか。 例えば、掃除とか家事とかを自分でやらずに、誰かを雇ってやってもらう。 究極的には、仕事すらせずに、好きなことをして暮らす。 日本でそれができている人がどれだけいるのだろうか。 もともとお金持ちは別にすると、企業年金をしっかりもらっている年金暮らしの人くらいでじゃないかな。 以前、幸福についてしばらく研究したことがあって、現在と将来、食べ物があるか、雨露をしのぐ場所があるか、そんな根源的な心配をしなくていいこと、こどもかちゃんと生きていける社会であることを信じられること、そういうものが社会の豊かさだと考えるようになった。 でも、経済成長を最大の目標とする人たちは、お金があって楽な暮らしができることだと思っているはずだ。 その暮らしは、いろんなことを機械や人に任せられる社会だ。 昔の貴族の暮らしだ。 社会全体の所得が上がるとどうなるのか。 人にモノを頼むコストが高くなるということだ。 標準的な仕事をして、給料をもらう人にとっては、給料の上昇と同じようにモノを頼むコストも高くなるのだから、以前と同じ階層にいて、社会全体と同じように給料が上がっている状態では、いつまでたっても、人を雇うのは高いままなのだ。 で、結局、家事は自分でやることになる。 じゃあ、今みたいに、ほとんどの衣食住が足りているのに、経済成長を求める理由はなんなのか? 所得が上がって、買いたいものがあるのか、あるいは、今できないことで、できるようになることがあるのか。 みんな、自分に聞いてみてほしい。 「豊か」になったって、自分で落ち葉を掃除しなければならないし、布団の上げ下ろしだって、自分でやらなければならない。 いまやるべきことは、「ほとんど」に入らない人たちが、不安なく暮らせるようにすることではないのか。 政策の優先度は、経済成長よりも、そちらにおくべきではないのか。 それこそが、豊かな「社会」だと思う。 お互いの批判ばかりして、足の引っ張り合いをする政党ではなく、そういう、大きな方針を掲げて、それを政策に反映しようという政治家っていないのかな。 正直、批判は聞き飽きたし、前向きではないと思う。 例えば、維新の会は結局公務員の既得権益が憎かったというのは分かるけど、それを打破した後、なにがしたいのか、結局わからない。 個人の豊かさという意味では、生きていくことへの不安がなくなれば、あとは、自分がしたいことをすることが、豊かさなのだろう。 僕の場合は、自分の研究テーマでもある、地域活動への参加(ごみ置き場の掃除)をして、庭の掃除をすることも、とても楽しい時間の一つだ。 それができるのは本当に幸せでいい暮らしだと思う。 でも、それは、社会全体の豊かさでとは、関係がない。 繰り返すけれど、ほとんどの人の幸せではなく、不安をなくすことが豊かさのもっとも重要な要素だ。