農家は自営かサラリーマンのどちらを望むのか。

新雅史氏の『商店街はなぜ滅びるのか』(光文社新書、2012年)を読んでいると戦後の政策として、日本型福祉社会を目指してきたというくだりがあった。終身雇用と専業主婦モデルをベースとして、社会全体として福祉を考えていくという方向性があった。その中に、次のような指摘がある。「終身雇用と専業主婦モデルに当てはまらない自営業のような家族は、いずれ衰退していく「前近代的家族」とされた。そして、フェミニズムをはじめとした「近代からの解放」を目指す新たな社会理論のなかでは、零細小売業や商店街のような対象は、見向きもされない対象となった。」(p.152) ひるがえって、農業を見ると、これは基本的に自営業者の集まりだ。 農協に依存してきたと言われるけれど、不作の責任、価格暴落の責任は個々の農民に帰する。サラリーマンというのは、事業の失敗が個々人の給料に影響しない人たちだ。 厳しい査定などはあるものの、事業で数億円の損失を会社に与えても、それを支払わされることはない。 農業者にはそれがある。 自営業とは何かと考えるならば、リスクを自ら背負うことと、意思決定の自由だ。 両者はコインの裏表であるが、都市部でのサラリーマン化は、各人が仕事のうえでのリスクを避けようとした当然の帰結であるとも言える。 都市部で自営業者がサラリーマン化してきた傾向があるならば、同じ傾向は農業にも見られるはずだ。 そしてその一端が農協への依存だと思う。 資金調達や、作付け計画などの重要な意思決定の一端を農協の「専門家」が担ってくれることで、農業者は日々の農作業に集中することができる。 同時に、意思決定の重みから自由になれる。 不作の責任は自ら負うとしても、その原因となった意思決定のミスを農協などに帰すことができるから、精神的な重圧は少しは楽になれる。 TPPの影響として言われる農業の大規模化は何も今に始まったことではない。 それ以前から大規模化は農水省が進めてきているし、株式会社の参入も認められている。 この潮流は、農業者の側に、「被雇用者になりたい」という気持ちがある以上、止まらないだろう。 そして、僕自身、全ての農業者が自営業者として、経営の意思決定を行い、事業のリスクを負わなければならないという考え方には強い違和感を感じる。 むしろ、今後は被雇用者としての農民を多く抱える大規模農業と、小規模な独立心の強い農業者が共存していく姿になっていくのではないか。 今後の政策は、経営力のある小規模農業者を支援する政策と、大規模化を目指す事業者に対する規制緩和の二つの方向を進める必要がある。 その中でも、前者をしっかり支援することで、地域社会は強固に維持できるように思う。 そうそう、これらの政策で僕が懸念することは、被雇用者である農民が、地域を維持するための作業等に協力するのだろうかという点だ。 いわゆる道普請や祭りなどがどう維持されていくのか、その動向を注視しながら、必要に応じて政策を微調整していかないと、気づいたら取り返しのつかない事態になる。 少なくとも、現時点では大規模事業者に、雇用する従業員の地域活動への参加を一定時間割り当てるよう義務づける等の方法も重要かもしれない。 ちょっと話がそれた。 農業におけるサラリーマン化の要望は、林業の世界でもすでに起こっている。 昨年調査に訪れた、東京チェンソーズもその一例だろうし、他にも、日雇いから月給払いへの移行という動きは見られる。 都市部の人間が月給をもらい、事業リスクを負わないサラリーマンになっているのに、一次産業の従事者だけはそれを求めてはいけないという理由はどこにもない。 むしろ、その方向は自然な方向だろう。 一次産業の雇用形態が、企業としての組織とその従業員をきちんと作り上げる過程で、コミュニティの保全能力がどう維持されるのかは、また検討しなければならない。 しかし、企業化の流れで考えるならば、意思決定部門が大都市に握られてしまわないように、できるだけ地域内で意思決定ができるように、地元企業を育成するという方向も重要な気がする。