きれいな海と豊かな海

先日、学生の引率で大阪市の漁協で環境プロジェクトを実施している方に話を聞かせていただきました。 そこで出てきたのが、「最近、淀川も大阪湾もすごくきれいになってきた。でも、魚はすごく減った。きれいな海とゆたかな海っていうのは違うってことやろうね」という言葉だった。 1960年代には、海の色は赤茶色で赤潮の一歩手前のような状態。 透明度も当然低く、2メートル先は見えなかった。 それでも、魚はいくらでもいた。 当時と今と、漁獲量はそれほど変わらないんだけど、中身が全然違う。 当時はほんの少し沖に出てちょっと漁をすればじゅうぶんだったが、今はハイテク機器をめいいっぱい使って、何とか同じ量を取っている。 この間に、どうやら、富栄養の海から、貧栄養の海になってしまった気がする。 話を聞いているうちに、子どもの頃持っていた、金魚の水槽のことが頭に浮かんできた。 小学校の高学年になってからだと思うけれど、60センチ水槽の上に、棚のような濾過器がついた水槽を買ってもらった。 スポンジを敷いた濾過器に、水槽から水をくみ上げて流し、スポンジを通った水が水槽にまた戻っていくという仕組みだ。 これはたぶん、今でも一番メジャーな水槽だろう。 3ヶ月ぐらいして、「ごみはとれたかな?」と思って濾過器をのぞいたところ、そこは茶色いぶよぶよしたものがいっぱいたまっていて、「汚れて」いた。 僕はスポンジを取り出して、バケツに入れた水で何度も何度もスポンジを洗い、当初よりは少し黒ずんではいるものの、少なくともごみはついていない状態にした。 ついでに、水槽の水も8割ほど換えてみた。 (もちろん、ハイポは入れたよ) 水槽を再びセットして、しばらく濾過器を回すと、なんだか水がすごくきれいになっていて、白く光っているように見えた。 翌日、朝起きて水槽を見てみると、大半の魚(金魚)が死んでいた。 そのときの僕には理由は分からなくて、とりあえず、魚を庭に埋めておいた。 20歳頃、弟に影響されて熱帯魚を飼うようになり、濾過の仕組みを知った。 濾過には、物理濾過と生物濾過があり、スポンジの上は物理濾過だから、ごみがたまるようになっている。これはごみだから、この層のスポンジは洗ってかまわない。 問題はそれより下の層のスポンジだ。ここにたまっているふわふわした汚泥のようなものは、水をきれいにするバクテリアのコロニーだ。 当然、これをあまりきれいに洗うと、バクテリアがいなくなってしまい、濾過機能がはたらかない。 どうしても洗いたいときは、濾過バクテリアを殺さないように、水槽の水をバケツにとり、軽くもみ洗いする程度にとどめておくことだ。 また、濾過槽の掃除と水槽の水替えを同時にやることもあまり望ましくない。 濾過バクテリアを大事にして水槽をメンテナンスすると、「水が輝く」という感覚が分かるようになってきた。 それは子どもの頃に見た、白く輝くような感じではなく、透明の水の中に、ときどきガラスの破片が入っているかのような感じで、水そのものがきらきらと輝く。 大阪湾の魚が減った理由はもちろん、水がきれいになったためだけではない。 たとえば、海砂の採種や護岸工事で干潟や浅瀬が減り、稚魚が育つ場所がなくなってきたことや、合成洗剤や農薬が流れ込んだ影響でプランクトンが激減したこと、なども有力な原因である。 こういういろんな原因が複合的に絡み合ってはいるのだけれど、すくなくとも、「きれいすぎる海」は、それほど多くの魚を生み出す場所にはなりにくいという言葉には、深く納得するものがあった。 僕たちが住みやすい場所と魚が棲みやすい場所は違う。 思い込みで、僕らがいいと思うことを魚に押しつけてもいけないということか。 これは、相手にとってよかれと思ったことが、相手のためにならず敬遠されてしまうという問題にも似ている。 ほんとうに相手が求めていることは何かをじっくりと考えることも大切なのだろう。 追伸:このインタビューは非常におもしろい話をたくさん聞くことができた。 また改めて、書き足していくつもりだ。