人々のゆがんだ関心が問題だ

19日、JR福知山線が再開した。僕はこの路線のユーザーで、ちょうど電車に乗る用があったので早速乗りました。 「なんか、マスコミ多いなあ」 と思ったものの、いつもの習慣で前から2両目に乗ろうとした。 が、車両の中にマスコミが三脚まで持ち込んでいて撮影体制に入っていてとても乗れたものではないので、3両目に乗った。 そこでもテレビカメラやカメラを持った取材班がうろうろして、インタビューしまくってた。 (車内の光景のの続きは、下の「続き」をクリックしてください。) このときふと思ったのは、環境問題の関心を喚起するためにマスコミを利用しても、何かの悲しい事故で社会の関心が集まっても、芸能人の醜聞でも、みんな同じ扱いをマスコミはするんだなってこと。 そして受け取る側も、ほとんど同じ反応をするんだろうな。 (「なんでもいいから、もっと目を引く情報を!」) 長期的な視点で、関心を喚起していかなければならない問題の場合は、マスコミの関心を集めることはむしろマイナスかもしれない。 それよりも、少しずつ関心が広がっていくほうが良い気がした。 キャンドルナイトなんて、その良いほうの例の一つじゃないかなあ。 僕は別に話すことなんてないので、帽子をかぶったまま本を読んでいるふりをしていた。 隣に座っていた年配の女性はインタビューされて 「あなたたちに話すことなんてないわよ。なんで話さなきゃいけないの?」 と小声で記者を叱責していた。 僕もたぶん声をかけられたら、 「うっとうしいから向こう行け!」 といったと思う。 車両が事故現場にさしかかったとき、一人の女性が立ち上がり、現場に手を合わせた。 僕はその動作にカメラのシャッター音とフラッシュで気づいた。 女性がまた座ろうとすると、カメラマンから、 「そのまま、もうちょっと」「顔、こっちに向けて」 とか、声がかかっていた。 女性は冷静に対応していたが、カメラマン、いったい何様のつもりなんだ? 悲しむ人を写して金をもらうなんて卑しいと思わないか? すぐに忘れ去られるなら、もうちょっとましな内容でお金もらったほうが良くないか? 「金のため」「仕事だから」「会社の命令で」 と答える人は、JRのスタッフを批判する資格はない。