林敏彦先生が亡くなられた。 大学院時代からの師匠の一人だ。 すぐにご連絡をいただいたので、家族でお通夜に参加させていただくことができた。 とても悲しいことだけれど、先生にお別れを言えた。 先生には大阪大学時代からとてもお世話になって、僕にとってのロールモデルの中核をなす存在だ。 ナチュラルファシリテーターとでも言えそうな力をお持ちだった。 時事通信社のおくやみ記事が掲載されている。 林 敏彦氏(はやし・としひこ=大阪大名誉教授・ミクロ経済学)4月28日午後9時25分、急性骨髄性白血病のため兵庫県西宮市の病院で死去、74歳。岡山市出身。葬儀は済ませた。喪主は長男健太(けんた)氏。(2017/05/02-15:31) (出所: 「林敏彦氏死去(大阪大名誉教授・ミクロ経済学):時事ドットコム」、http://www.jiji.com/jc/article?k=2017050200744&g=obt) 先生のさまざまな人が議論する場をうまくつくりあげ、まとめる力は稀有のものだ。 先生のお年を考えると、ファシリテーションという言葉が意識される前から、そういう力をお持ちだったのだろう。 僕が鹿児島大学に就職してすぐに、先生に「高度情報化社会の未来学」という研究会をやるから参加することという連絡がきた。(報告書) 奈良の国際高等研究所というところで年に数回一泊二日で開催される研究会で、土曜日の昼過ぎから翌日の昼まで、各界で活躍する人々が議論を交わす場だった。 20人くらいのメンバーがいただろうか。 各メンバーがそれぞれの立場から発言するから、議論がすぐに発散してしまいがちのだけれど、先生が要所要所で口を挟むと、場が一気にその時テーマにしていた話題に収斂していった。 発散と収斂のリズム感がとても心地よく、何か的外れな話をしても林先生がなんとかしてくださるという雰囲気があった。 50代か60代の方が中心の場に20代は僕一人で、そのときの僕はまさに必死だった。 自分の存在感を示さなければ、呼んでいただいた先生に対して申し訳が立たない。 そんな気持ちだったから、発言はかなり空回りしていたように思う。 奈良から帰る道のりはいつも反省ばかりだった。 そんなわけだから、先生が放送大学に移られたときに、大学院生の指導要員として招いてくださったときには、ほっとした。 また、先生の仕事を見せていただけるのだとも思った。 世の中にはいろんな人がいて、それぞれ考え方が違う。 それを無理やり一つにまとめようとするのではなくて、まずはゆっくり聴くことや。 そのなかで、それぞれの人が大切にしていることが必ずあるから、それを見つけてあげなあかん。 それを世の中の原理原則と照らし合わせることで、道が見えるはずや。 一般の人には世の中の厳しさを見せなくてよい。それは政策の仕事だ。 世の理のなかで、限られた資源を手にしつつ、人々の思いをすくいあげようと戦い続けたのが先生の姿。 先生のコーディネートを見ていると、そんなメッセージをいただくような気がいつもする。僕はそんな先生の仕事を見るのがとても好きだった。 僕は実は先生から研究の指導をしていただいたことはない。 院政時代には、文化政策の経済効果の推計とNHKから委託された震災特番の基礎となる分析のお手伝いをさせていただいた。 院生用のコンピュータ室を僕たちが勝手に占拠してルールを作って運用し始めたときには、予算をつけてくれて、さらに自由に動けるようにしてくださった。 それどころか、各教員にメールアドレスを配布して運用する際には、僕たちを教員の指導係として任命してくださった。 そして、未来学と放送大学の仕事をくださった。 改めて書いてみると、ほんとうに先生にはお世話になりっぱなしだ。 なぜそんなことをしてくださるのかは、今でもよくわからない。 研究科の院生は研究科の教員全体の教え子だから、遠慮なく頼って来いと蝋山先生がおっしゃっていた。 林先生も同じように、自分のゼミ生以外に意識的にチャンスを与えていたのだと思う。 先生は、いつも、にこにこしながら「おもろそうなことを好きにやったらええ」と言ってくださっているようなイメージがある。 これを書いている今も、これから先生のことを思い出すときにはいつも、そんな姿を思い浮かべるのだろう。 ほんとうに、ありがとうございました。