効率的ということ

「たとえばファーストフード・レストランで食べること、あるいは家庭で電子レンジを用いた夕食をとることは効率的であるかもしれないが、それは人々が「手作り」の食事を準備する場合よりも費用がかかる。効率性が高く価値づけられているので、人々は進んで超過費用を払っているのだ。」 (ジョージ・リッツア(正岡寛司訳)『マクドナルド化する社会』、早稲田大学出版部、1999年、p.233) 家で暇そうに寝そべっている学生はなぜコンビに弁当を食べるのだろうか。 効率的に食事をして、余った時間でなにをするというのだろうか。 後で振り返れば、食べた食事の内容も、そしてそのあとでぼーっと寝そべってすごした時間のこともちゃんと覚えていないだろう。 それが、「時間を節約した」結果。 エンデの『モモ』そのままの世界だ。 経済学者はすぐに効率性を口にする。 効率性が達成されているのはよい社会だ、と。 でも、実際には一部だけが効率的になっているものの、それで余剰となった様々なリソースはちゃんと活用されずに、やっぱり余剰のままなんじゃないだろうか。 この本を読みながら、そんなことを考えた。 もう少し読み進めてみよう。