小説の楽しみ:物語と主人公

藤沢周平の作品を読むことにした。 以前から父から勧められていたし、正月に帰省したときには弟が絶賛していた。 そのときは、特に読もうとは思わなかったのだが、弟に借りた司馬遼太郎の「燃えよ剣」を読んで少し考えが変わった。 (弟が面白いと言うなら面白いのかもしれない) 僕は、書店に行き、藤沢周平の作品を選んできた。 選んだ作品は、「用心棒日月抄」。 剣の達人で浪人中の主人公である青江又八郎が浪人して3月半後から、1年程の出来事を記した作品だ。 この本を選んだ理由は、シリーズ物だからだ。 僕は本を選ぶときはだいたい長い物を選ぶことにしている。 それを、藤沢周平を読みながら考えていたら、同じ主人公とそれだけ長い間付き合えるからだということだった。 魅力的な小説の中の主人公の生き様を見たいから僕は小説を読むのだった。 物語はむしろその後だ。 どちらかと言えば、物語や時の流れを優先する司馬遼太郎よりも人物を優先する池波正太郎が好きなのもそのせいだった。 ストーリーを知り尽くしている物語を何度も(しかもぱらっと開いた場所から、)読むのも、その主人公に出会えるからだった。 なんとなく、藤沢周平を読みながら、そんなことを思った。 藤沢周平はどちらかと言えば、物語に凝る方なのだろう。 何となく、青江よりも、サイドストーリーとしての忠臣蔵外伝とでも言うべきストーリーが印象に残ってしまう。 青江自身は何となく印象の薄い主人公だ。 むしろ友人の細谷の方が心に残っている。 主人公が嫌であまり好きではないシリーズ物といえば、平岩弓枝の「御宿かわせみ」がある。 主人公東吾の恋人の「るい」があまりにいじらしくて読んでいられないので、読むのを途中でやめてしまった。 もちろん、るいの女心を通して世界を作り上げるのが作者の技術であるし、この小説の味だと言うことは分かるが、あまりにもかわいそうだ。 もっとも、今は東吾とるいは無事結婚しているらしいから、そこまで読めば違う味わいがあるのだろうが、リアルタイムで追いかけている読者にはつらい展開だった。 日本ではないが、中国の主人公を物語った小説では、宮城谷昌光の描く主人公たちがものすごく魅力的だ。 さまざまな境遇に身をおいている人々であるが、いずれも後世に名を残した人ばかりと言うこともあるのだろうが、その行動や考えには感動せずに入られない。 中国の社会も小説を通して垣間見えるのだが、現代に通じるものは何かというと、やはり人ではないかと思う。 その人の描き方が絶妙だ。 一方で、物語を作るために主人公をはめ込んだんだな、と思ってしまう作品は数多くあるけど、ほとんど印象に残っていない。 物語の構成が良くできていればいるほど、「ああ、理論の枠に現実をはめ込もうとすると、こうなるよな」といいたくなるような、形式ばった人物像が目に付いてしまう。 そうなると、物語自体がすごく人為的なものに見えてきて、好きになれなくなってしまうし、心にも響かない。 このあたり、好みがあると思うので、自分の好みにあった本の選び方をすると良いのかな?と思う。